考えは違っていていい

目に見えないものをどこまで信じるかは、個人によって全然程度が違う。例えば、幽霊が見えるという人もいれば、絶対に信じないという人もいる。中には、自分は信じていないが、見たと言う人を疑う気はない。世の中そういうこともあるのかな……くらいの距離感の人もいる。これは本当に人それぞれだし、やや内面の思想に踏み込む話題でもあるので、話題に上がることはあまりない。小学校の頃なら、学校の怪談を信じるか否か、なんて話はあったが、大人になるとそんな機会もなく、他人がどこまで目に見えないものを信じているかなんて意識にのぼらない。

それでも、時々会話の端々でその人の思想が現れることがある。
ある人は「神様なんていない」ときっぱり発言したことがあり、彼女は非常な論理家だったので不思議はなかったが、「ああ、この人は神様を全く信じていないんだ……」と感じた。彼女はすぐに「もしも何か宗教を信じていたらごめんね」とフォローを入れたが、本人が無神論者であることを隠す気はないらしい。自分は、漠然とした創造主──この世界があるということは、それは誰かや何かが作ったに違いないのだから、その作り手である何か──を信じているので、たぶん彼女ほどはっきり「信じていない」とは言えないだろう。英語で、something great(何か偉大なもの=人智を超えた存在)という言葉があるが、自分が思うのはそれに近い。

では、自分が見えないものをすごく信じているかというと、そんなこともないのだ。今日、会おうと思っていた知人に連絡をしたら「ちょうど今、電話しようとしていたところだったのよ!思いは通じるって言うけど、こんなに通じるものかしらと思ったわ」と言われ、「自分だったら『ただの偶然』で済ませちゃうなあ……。思いが通じるなんては考えてないかも」と感じた。こちらの彼女に比べれば、私は明らかに淡白だ。とっさに言葉になるほど、目に見えない力を信じてはいない。

不思議なのは、自分がそのどちらの知人とも付き合いがあることだ。普通なら、無神論的な考えを持つ人はそういう人と付き合うし、見えないものを信じる人は、同じように信じる人と付き合う。仕事の仲間ならともかく、プライベートで考えの違う両者がわざわざ付き合うことは珍しい。なんとなく、自分は両者の中間にいるのだろうと思う。

普通に生きていると、自分の考えが世間の平均だと思い込みがちだ。他人との違いが見えない限り、基準になるのは自分しかいないから。だけど、周囲の人々と比較することで、自分の立ち位置がぼんやりと把握できることがある。そういうときの「比較」は、何も悪いものじゃないと思う。信じる・信じないに優劣はない。ただ私たちの考えが異なることを教えてくれる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。