知らない言葉と出会うこと

陶器の皿が欲しくて、雑貨屋で物色していたら「煮沸禁止」と書かれた皿があった。熱湯に触れさせるなということなのか、意味を図りかねて、店主に「これどういう意味ですか」と訊いてみる。彼女は答えて、

「陶器の食器っていうのは最初に『目止め』っていうのやるねん。陶器の土の間に、料理の油とか汚れとか染みついたら取れへんやろ?それを防ぐために、米のとぎ汁を鍋に入れて、皿を入れて沸騰させるねん」

そういえば、陶器を買ったときは母がそんなことをしていたような気もするけど、食器を買うこと自体が少なかったので、完全に記憶からこぼれている。店主は続けた。

「昔はそういうの、家で教えたもんやってん。せやけど、このご時世そんなこと教わらんやろ?それで、買って何もせんまま皿使った人が『料理載せたら皿が汚れた』ってメーカーに苦情入れるねん。そうしたら、メーカーも対応せなならんやろ?それで『煮沸はもうこっちでしてあるから必要ない』って、そういう意味やねん、『煮沸禁止』っていうのは」

それを聞いてちょっと考えた。メーカーなりの考えはわかったけれど、それなら「煮沸禁止」ではなく「煮沸の必要はありません」という表記にしてもよかったんじゃないか。あるいは、せっかく「目止め」という言葉があるのであれば、「目止めはしてあります」って書いておくとか……。そうすれば、目止めを知っている人は「必要ないんだな」と判断できるし、知らない人は「目止めってなんだろう?」と調べるきっかけになるかもしれない。「禁止」っていう書き方は、なんだか変だなと思った。

恥ずかしながら「目止め」という単語を今日、初めて知った自分としては、そんな風に知らない言葉を知る機会を作ってくれたほうがありがたい。わかりやすい言葉で説明することは大事だけれど、そればかり追求すると、今度は受け手が高慢になるのだと思う。つまり、自分では何も調べずに「私にわかるように説明しないあなたが悪い」と、発信する側をどこまでも責めることが可能になってしまう。なってしまうというより、実際に今そういう世の中になっている。

わかりやすく伝える工夫が大事なのと同じくらい、わからないことを知ろうとする努力も大事だ。未知を既知に変えようとする努力。もちろん、誰だって自分の非力は認めたくないし「悪いのは私じゃない。わかるように説明しない人に責任がある」と言いたくなるのはわかる。だけどその前に立ち止まって考えてほしい。その人の言うことを、そもそも理解しようとしているのか?ただ黙って突っ立って「私に理解させてくれないあなたが悪い」と駄々をこねるだけになっていないか?

自分も時々そうなることがあるので、自戒を込めて書いている。情報の受け手だからといって、上げ膳据え膳でもなんでもやってもらえると甘えるのはよくない。相手も苦しいし、自分の知識の幅も広がらないし、ひいては今の自分の持ち幅でしか世界を理解できないことになってしまう。せめてわからないことをわかろうとする努力は放棄しないようにしたい。

ちなみに目止めについて ↓ 。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。