幸せになるってシンプルで

自分にとって大切なものは何で、それをどこまで大事にできるか。あるいは自分の嫌いなものは何で、それをどこまで遠ざけられるか。「幸福」っていうのは、つまるところ、その二つにかかってくるのだと思う。

日頃、できるだけ居心地のいい場所にいようと努力していると、だんだんその心地よさが当たり前になっていく。この間、久しぶりに「嫌なもの」を見て、自分が何を嫌っていたかを思い出した。

それは
「芸能人の○○、あのドラマのとき抜群に可愛かったですよね」
「なんで○○そんなに好きなの。××はどう?」
「あんまり好きじゃないんですよ、彼女のどこがいいのか、まったくわからない」
という会話を延々としている人たちの姿。

それが悪いというわけでは全然ない。ただ自分は、思春期の頃こういう話題にまるでついていけない人間だった。

なにせ流行りのドラマに興味がない。芸能人の名前がよくわからない。旬のお笑い芸人も知らない。だから、周りが「○○くん(アイドル)、かっこいい!」「あの作品の××ちゃんが最高~」と言っているときに少しも乗れず、空気と化すしかなかった。

話題についていけない人間をごく自然に排除する、あの風潮が嫌いだった。それで自分はそこから逃れるために、1人で行動しがちな人間になったんだっけ。

このところ、なんで自分が単独行動をするのか漠然と考えていたけれど、そういえばああいう俗っぽい空気が嫌いだったんだと思い出した。

そんなだから、自分の周囲に残ったのは、すごく密度の濃い話をする人々になったのだ。「愛とは何か」を話すこともあれば、「どうして生きているのか、なぜ私たちは自殺を選ばないか」を話題にすることもあるような。

悩みを率直に話すこともあれば、あまり人前で話せないようなデリケートな話をすることもある。自分にとって、人に会って話すというのは、つまりそれくらいの重みを持っている。その重みは、私にとってすごく必要なもので、ただ単に「あのドラマのここがいい」と、熱狂的なファンでもないのに薄く浅く語るくらいなら、会わなくってもいいとすら思う。

真剣な話をするなんて重たい。重たいことは面倒で嫌いだ──。そんな風に言う人もいるだろう。軽くて楽しいほうがいいじゃないか、なんで自殺の話とかしなきゃならないんだよ。

そう言われたら「重い話をしなくて済む人間は幸せだよ。そのまま生きて」と返す。これは本音だ。軽いことが悪で、重いことがいいわけじゃない。一生、軽く生きられるなら、それに越したことはないかもしれない。

ただ、自分にとっての幸せは、軽さの中にはない。私は重くて面倒なものを、それでも大事にして生きたい。そのせいで自然に排除されることはあるだろうけど、それくらい仕方ないね。

だって、大事なものは大事に、嫌いなものは嫌いなものとして生きていたい。幸福ってそういうことだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。