何かができるって素晴らしい

すごく仕事のできる人を見ると──もっと言えば、その人に助けてもらうと──まるでスーパーマンみたいだと思う。彼らの正確なスケジュール把握と、ピンチからの回復能力に何度助けられているだろう。

そう、人の能力って基本、誰かを助けるためにあるんだよなあ……。そんなことを考える。

私たちは「能力が高い」ということを、どこか利己的なものと捉えていないだろうか。「お金を稼いでいる」とか「○○のスキルを持っている」とか聞くと、なんだかその能力で本人だけが得をしているように感じて、相手を妬んだり蔑んだり。

だけど、その人たちは多かれ少なかれ、その能力で他者に貢献しているであろうわけで(詐欺などの金儲けを除く)。

スキルのある人は、それを生かして他人の生活をより便利にしたり、あるいは問題を解決したり、新しいものを産み出したりする。何かをお金に換えるのが上手な人は、そのノウハウを共有することで、他の人たちをも豊かにする。こう書くと、全然悪いことじゃない。

それなのに、どこか優れた人に対する妬み嫉みの風潮があるのは「能力は誰かのためにあるものだ」という考えが欠落しているからじゃないか、と思う。

例えば学校で「競争を煽るのはよくないし、順位の低い子が可哀想だから」という理由で、成績順位を公表しなくなっていること。あるいは「徒競走では、みんなで手を繋いでゴールしましょう」「学芸会で、誰か1人を主役にするのはやめましょう」みたいな不思議な主張があること。

どうしてそうなるんだろう。成績のいい子は、それだけ将来、より人の役に立つ人間になれる可能性が高いんじゃないか。数学がよくできるなら、精密な計算の必要な分野で人の役に立てるかもしれない。データを解析して、街の利便性を向上させる人になるかもしれない。少なくとも、残念ながら数学のできない子よりその可能性が高い。

地図記号が読めれば、その土地の住みやすさや災害の有無を判断し、「ここに家を建てないほうがいいよ」「ここは高低差が低いから、歩きやすい街じゃないかな。坂道も少ないから高齢者にもおすすめ」と他人にアドバイスできるようになるかもしれない。

足の速い子は、その身体能力を生かした仕事に就くかもしれないし、学芸会で主役を張れる子は、人前に出ることで多くの人を勇気づける人になるかもしれない。

大事なのは、個々人の能力をきちんと認めた上で「それが称賛されるのは、将来ひとのために能力を使うという前提があるから」と伝えることだと思う。「できないことは可哀想」ではなく「できることは他者のために生かそう、能力があるということは、誰かを助けられるということだよ」と教えるほうが、ずっといい。

だから、自分ができない人の側にいるときだって、それは誰かを妬む理由にはならない。できる人には助けてもらえばいい、だって彼らは誰かを助けてこそスーパーマンになれるのだから。

自分のためだけに能力を費やす人間は、いずれ消えてしまう。そんなこと、少し大人になった人なら誰だって知っているだろう。何かができることはいつだって素晴らしい、それで誰かに貢献できる限り。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。