「人生」の定義について思うこと

「人生」をどういうものだと思っていますか──と質問される。そんなことを聞かれることはそうそうないだろうから、いつもより真剣に考えている。

単に人が生きることとしての人生と、私が生きることとしての(そういう意味ではたったひとつだけの)人生。実存的な人生の定義。なんだろう、難しい。

先輩の女性で「死ぬまでの暇つぶしで生きてるって感じ」と言った人がいるが、自分もこの感覚が近いんだろうか……。とりあえず時間を繋いでいくこと。死ぬまでの時間を、どうにかできる範囲で快適に過ごせるように。

多くの人の言うことにすっかり振り回されているときは、人生は適切なタイミングでライフイベント(青春、就職、結婚、出産、なんでもいいけどそういうもの)をこなすものだという考えに憑りつかれて苦しむし、そうでないときは自分のやっていることが果たしてこれでいいのかどうか、わからなくてやっぱり悩む。

考えれば考えるほど、自分の「人生」のイメージは明るくない。世の中には「一度きりの人生、めいっぱい楽しみたい!」とかプロフィールに書いている人がいたり、「人生ってもっと明るくて軽やかなものだよ」と自分に直接言ってくる人もいる。あの人たちと自分の違いは何なんだろう。

人生って、明るかったり暗かったりするようなものなんだろうか。そんな面倒なことを言い始めるから明るくなれないのか。

ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』の中に

一度しかないということは、繰り返されないということだ。
この人生が百回も二百回も繰り返されるのであれば、私は最初の人生を慎重に生きたことだろう。

というような描写があった(本が手元にないので、うろ覚え)。

一回しかないということは無いに等しい。無いに等しいということは、しかし無いこととは違う。人生ってそういうもの。

すごく軽くて無力かもしれないけど、なかったことにはできないもの。私にとっての人生はそういうものだ。途中で自死して忘れ去られるにしても、それでも「なかったこと」にはならない。そういう、取り返せない一回性。

そして他の誰も引き受けることができない、自分が終わりまでそこに居合わせるしかない長い物語。長くて短くて、その外には誰も出ることができないような物語。

私が考える「人生」は、今はそんな感じだ。だから「人生を楽しもう」「それは明るくて軽やか」あるいは「ただひたすら耐えるものだ」という風には思っていなくて。「ただ自分に与えられた、そこから出ることのできないもの」だ。

冒頭の質問をした人に、そう返したからどんな顔をするだろう。残念ながら文面でのやり取りしかしていないので、相手の表情が見られないのが口惜しい。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。