その感情を「孤独」というんだ

理由もなく泣き崩れる夜が、ここ一年近く断続的に続いていた。「理由もなく」と書いたけれど、最初それは「自分は必要とされていない」という感情からくるものだと思っていた。仕事をして重要なポジションに就いているわけでもなければ、子供を育てているわけでもなく、パートナーもいない。家族が自分を大事に思ってくれているし、周りの人や環境にも恵まれているのに、夜になると凄まじい負の感情が込み上げてくる。ひとりで泣いてしまう。

以上のことを、話の通じそうな人たちに訴えてみた。無価値感がひどく、惨めな気持ちになること、自分が必要とされていないように思えること。いま思えば、そこで言ったことは何一つ本当の問題ではなかったけれど、その人たちは耳を傾けてはくれた。そして

「究極的には、この世に必要な人なんて誰もいないよ」
「彼氏いないの?結婚するのいいと思う、そしたら相手は自分のものなわけだし」
「悲観して自殺したいとかじゃないなら大丈夫じゃない?」

という、彼らなりに考えてくれたのだろうが、しかし的を外した答えが返ってくる。通じなかった、と、そのとき薄い絶望を覚えた。

自分にとって、その悩みはもっと深刻なもので、自殺しないから大丈夫とか、彼氏がいれば埋められるとか、そういうものではないつもりだった。「話せばわかってくれるだろう」と勝手に期待した私も馬鹿だったのだか、少しは信頼していた人たちから向けられる無理解は、私をもっと不安定にした。それで、彼らと会った帰りの電車で、静かに涙を流すことになった。

それから私は「理解されない」ということについて考えた。自分が夜な夜な襲われたのは「誰にも深く理解されない」という感情だったんじゃないか。話してもわかってもらえない、精神的な一人ぼっち。

──「孤独」。そうだ、こういう状態が感情が「孤独」と言われるのだ。そう思ったとき、ちょっとは自分を客観視できたのだろう、悲しみで沈んだ沼から、少しだけ浮上できたような気がした。

言葉になるということは、それが私だけの現象じゃないと理解することだ。かつて、それを経験した人がいるから「それ」は言葉になって残っているわけで、この感情が「孤独」だと定義できてしまえば、それは(少なくとも表面的には)誰もが理解できるものになる。私はかつて(あるいは今)孤独を感じているすべての人とその感情を分け合える(かもしれない)。

そこまで考えてから、地元でお世話になった、ある人を思い出した。習い事の先生で、文化的な数々の賞を受賞し、夫や子ども、生徒たちにも恵まれている。そんな彼女が
「さみしいと思うことがあるの。夫は『俺がいるからいいじゃないか』って言うんだけど、そうじゃない」
と語ったことがあって、その時はよく理解できず「そんなものかな」と聞き流していたが、今なら少しわかる。きっとあれが「孤独」なのだ。他人には届かないさみしさ。誰といても誰と話しても、わかってもらえないような、あの感情。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。