「お前が考えろ」の罠

自意識過剰と言われるかもしれないけれど、時々こういうことがある。見知らぬ誰かが、理由もはっきりしないままこっちを見下したようにニヤニヤと見ていたり、通りすがりの人にいきなり馬鹿にされたような笑い声をかけられたり。理由もなく嗤われている、あの感じがひどく嫌いだ。

その「嫌な感じ」は言語化できない──と思ってこの記事を書き始めたのだが、いま書いてみて、相手が狙っているのはそれなのかもしれない、と気づいた。つまり、理由がわからないから嫌な気持ちになるのだということ。そこに明白な理由があれば──例えば、何もないところでつまづいたり、何かを取り落としたり、手順を間違えていたり、そういうことがあれば、性格の悪い人ならそこを取り上げて嗤い者にすることもあるだろう。

でも、明白な理由もないのに嗤われたときはどうか。人はまず「自分が何かやらかしたんだろうか」「私の何が悪かったんだろう」と反射的に考えるんじゃないだろうか。そしてまさに、相手の狙っているのはそこなのだ。嗤われている理由を、本人に探させようとすること。そして、その人に自信を失わせること。何を理由に嗤っているわけでもない、ただ相手の自尊心を削るためだけの行為。「自信を失え」というメッセージ。

「人が誰かを傷つけるのは、その人が幸福ではないから」という言説は広く流布しているが、この場合はその通りだ。自分に満足していないから、誰かを貶めることで均衡を取りたい、誰かが自分より恵まれているのは許せない、引きずり落としたい、という感情がその嗤いの背後にはあるんだと納得する。

誰かを理由もなく不当に扱い、相手に自分でその理由を探させることで、自信を失わせようとする。こうまとめてみると、この巧妙な嫌がらせは、いろんなところで見られるように思えてくる。別に大きな理由はなくても、誰か一人をターゲットにしてクスクスと遠巻きに嗤うこと。いきなりキレておいて「なんで私が怒ってるのか考えなさい」ということ。すべて、相手に対し優位を取ろうとする幼稚な戦法に過ぎない。

このやり方の醜悪なところは「相手に、自分が不当に扱われる理由を考えさせる」というところにある。仮にこれをやられた誰かが「きっと僕が気持ち悪いからだ」「私があの人たちの機嫌を損ねたんだ」と思うなら、それは嫌がらせをした側の思う壺であって、本来は他人を嘲笑するほうが完全に悪いし間違っている。もしも理不尽な物事に対して「やられた訳は、お前が考えろ」と言われたら警戒しよう。ダーティな話になったけれど、結果的に言語化できたのでよかった。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。