翻訳書の愉しみ

ポール・オースターの『孤独の発明』を、本当にずっと読んでいる。何回も繰り返し。手元にある英語原文もチラチラ見ながら、翻訳とのニュアンスの違いに唸っている。

とりわけ違いを感じるのは、主人公(兄)の視点から描写された、父親と妹の関係だ。父親は妹を天使のように溺愛するが、それは裏を返せば、一人の人間として扱っていないということでもある……その光景が醸し出す雰囲気は、和訳と原文で微妙に異なっている。

日本語訳は以下のようになっている。

父にとって妹は一人の個人ではなかった。天使だったのだ。自立した存在として行動することを妹はけっして強制されなかった。ゆえにいつまで経っても自立できるはずはなかった。
(ポール・オースター『孤独の発明』柴田元幸訳、新潮文庫、新潮社、平成27年、p.44)

原文はこうだ。

She was not a person to him, but an angel, and because she was never compelled to act as an autonomous being, she could never become one.
(Paul Auster, The Invention of Solitude, Penguin, 1988)
彼女は彼にとって人ではなく、天使だったのであり、独立した存在として行動することを決して強制されなかったために、永遠にその一人になれなかった
(直訳:メルシーベビー 2019,4,21)

個人的には、和訳のほうは妹が天使であることに比重を置き、英文のほうは人間でないことに重点を置いているように思えた。英文の最後を読むと「妹は人間にすらなれなかった」と訳したくなるような、乾いて歪んだ響きがする。もちろん、このあたりの語感は人によるものなので、そうは感じない人もいるだろう。本の読み方なんてそれでいいし、完璧な翻訳も存在しない。むしろ和訳を読むことの醍醐味は、翻訳者の解釈を楽しむところにある。

オースター作品の日本語訳は、ほとんどが柴田元幸によるものだが、彼の翻訳でなかったら、自分もここまで繰り返し読みはしなかっただろう。ちなみに韓国文学の翻訳者に関して言えば、斎藤真理子がこれに匹敵する。ファン・ジョンウン『誰でもない』、パク・ミンギュ『カステラ』は、彼女の訳だからこそスラスラ読める。

外国文学ばかりではなく、同じ日本語の作品であってさえ、古典と現代語訳という翻訳作業があるが、これも事情は同じらしい。

例えば『源氏物語』にはあまたの訳が存在し、与謝野晶子や谷崎潤一郎ほか、様々な訳者の手によるテクストがある。人によっては「与謝野晶子訳が最高だ。細かい部分は間違っていることがあるが、流れを体得できていて違和感がない」などと言うから、古典好きにとっても「訳者が誰か」ということは無視できないのだろう。

そんな風に差異を楽しむ自由があると思うと、翻訳書は「原語が読めないから仕方なく別の言語で読むもの」ではなく「訳者とともに読書の喜びを味わうもの」へと変化する。「原語で読めない」は、ハンデでもなんでもない。ただ、翻訳という世界への扉を開いてくれているに過ぎないのだ。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。