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個人のカルマ

 本質において、個人のカルマは、意識という非物質的な領域の中に存在する情報のパッケージです。(コンピュータチップによく似ています)。情報のパッケージの中には、霊的な身体あるいは魂の一部である固有の情報コードが収められています。そのコードは、付随する思考や感情などのニュアンスとともに、過去の体験すべてを凝縮しています。スピリット体は、選択の自由を保持していますが、選択の幅はすでにパターン化されています。
 つまり、同じパターンを繰り返す傾向にあることは明白ですが、同時に変化する機会も与えられています。たとえば、対極性という矛盾を超越することもできます。魂は肉体を持って生まれ変わることも、肉体を離れることも、あるいは霊界を探求し、それゆえに地獄や煉獄をさまよったり、願わくば「愛」や「真理」、神もしくは「救い主」に身を捧げることによって天国へと導かれることもできるのです。
 プライドと謙虚さのどちらを選ぶかは、個人のカルマに多大な影響を与えます。キネシオロジーに問うことで、ブッダの目的が覚醒を教えることだったということが明確になりました。対照的にキリストは、自らが霊的な存在であることを受け入れていない、すべての魂の救い主として現れました。ブッダは覚醒を教え、キリストは救済を教えたのです。
デビッド・R・ホーキンズ『 I 〈わたし〉 真実と主観性』p.317

1年前くらいからずっと、わたしの主な関心は「魂というものをいかに語るべきか」というところにあります。この物質世界にいま肉体を持って生きているわたしたちの自我はさまざまな条件づけによって形成された「主体感覚という幻想を持った複雑なプログラム」といえます。しかし一方で、あまたの転生を繰り返し、様々な体験をしながら意識を進化させていく主体なるものがあり、これを魂と呼んで差支えはないのですが、人間の知性が把握して表現できるものは、魂という概念のほんの一部分でしかないようにわたしには感じられます。

それでもなんとか、できるかぎりの説明をしてみようと思ってさまざまな文献にあたったり、サイケデリクスを用いて意識を拡大させたりして、知見を深める努力を続けています。ある程度まとまった形になるのはまだもう少し先になると思いますが、その過程で断片的な情報をこのような形でアウトプットしておこうと思います。

ちなみに、なぜ魂について考えているのかというと、つまるところそれがすべての人にとっての究極の問いと答えであるところの「自分は何者なのか?(あるいは何者でないのか?)」を知るための唯一の手掛かりとなるはずだからです。

さて引用文の重要な箇所についての解説・補足です。

「個人のカルマは、意識という非物質的な領域の中に存在する情報のパッケージ」

であるということですが、これは「個人のカルマは『書かれている』」ということを意味しています。ホーキンズ博士はエゴ(肉体と精神)とカルマは同じだと述べています。するとつまり、わたしたちが持って生まれてくる肉体とその遺伝情報は「書かれたカルマが物質化したもの」ということができます。そして自我として現れてくるものは「物質化したカルマが現象化したもの」と言えるでしょう。意識という非物質な領域に、カルマが情報パッケージとして存在するというところは、いわゆるアカシックレコードの呼ばれるものをイメージしてもよいでしょう。

「情報のパッケージの中には、霊的な身体あるいは魂の一部である固有の情報コードが収められています」

人間には肉体のほかに霊的な身体があります。この霊的な身体は一つだけではなく、大きく二つに分けられます。一つは一人の人間としての個別性を担うボディで、これはさらにエーテル体、アストラル(感情)体、メンタル(知性)体の3つに分類されることが多いです。

もう一つは魂へとつながっていくボディ、あるいは魂の一部としてのボディです。魂は肉体を持つ人間と1対1で対応しているわけではありません。このことについてはまた別の機会で書きますが、こちらもコーザル(原因)体、スピリチュアル体、キリスト体などさまざまな分類と呼称が存在しています。

ホーキンズ博士がここでスピリット体と呼んでいるものは、これらの総称と考えてよいと思います。

スピリット体は、選択の自由を保持していますが、選択の幅はすでにパターン化されています。
 つまり、同じパターンを繰り返す傾向にあることは明白ですが、同時に変化する機会も与えられています

これがいわゆる「自由意志」のことと言えるでしょう。ラメッシ・バルセカールはすべてパターン化されているので人に自由意志はないと言っていますし、ブッダも同様の考えです。ですが、それでも人間には見かけ上のことに過ぎないとしても「選択」を行うことができます。博士によれば、その幅もパターン化されているわけですが、それでもある程度運命は変えていけるということになります。

ある条件に対する選択について、パターンAを選ぶ確率が99%だとします。極端ですが、たとえばある男性は浮気の誘いがあれば99%はその誘いに乗ってしまうというカルマのパターンを持っています。でも、1%というごく小さい確率ですが、誘惑に乗らないというパターンBが用意されているとします。この男性にとっては、女性問題が目下、もっとも重要な学びの課題なのですが、この確率ではほぼこの人生でこの課題を克服することは無理でしょう。

でももし1%の気まぐれが起きれば、それによって彼は学び成長し、それ以降はパターンBを選択する確率が2%に上昇するかもしれません。そのような確率的に薄いところばかりを選択し続けることはなかなかあり得ないことですが、ある人物が奇跡的に変化し、目覚めるというようなことは、このようなことが起きたということなのです。彼の場合、最終的にこの人生を終えるときに、まだパターンAの確率がとても高ければ、このカルマは次回の人生にそのまま持ち越されるでしょう。

プライドと謙虚さのどちらを選ぶかは、個人のカルマに多大な影響を与えます

このように、人生には変えていける可能性があります。それは希望になりますが、一方でよい方向へと変えていくこと、つまりカルマを乗り越えていくことは困難だという話にもなっています。

ただ、これは悪いカルマ、ネガティブなカルマにフォーカスして話をしているからでもあります。その人の意識レベルがどれくらいであるか、ということは、その人がどのようなカルマを持っているかということとイコールですから、意識レベルが200以上の人の人生は基本的に少しずつではあってもより苦しみの少ない方向へとシフトしていくカルマで構成されていると言えます。

意識レベルが300台の上部を超える人は、先ほどの例のような「重い(=意識レベルを引き下げる)」カルマはもうあまり残っていないでしょう。200以下ですと、重いカルマばかりということになりそうです。もっとも、特定の非常に重いカルマを抱えている場合はそのカルマを克服できたときには意識レベルは大きく浮上する可能性があります。そこそこ重いカルマをいくつも抱えているようなケースだと、なかなかこの人生で一気に浮上することは難しいかもしれません。

いずれにしても、判断のポイントになるのは「プライドを選ぶか」ということです。プライドを選ぶということは自尊心を満たすためなら自己中心的であってもよい、という態度です。これは意識レベル175で計測されるものですが、重いカルマというのはほぼ例外なくプライドと関係しています。それゆえ、意識レベル200を超えてポジティブな領域へと浮上できないのです。

プライドを捨てるということは「謙虚になる」ことです。謙虚とは、受容性が自己中心性に優っているということを意味します。プライドを捨てるには「勇気」が必要ですが、勇気は意識レベル200に計測されます。まとめるなら、「どんなときにも、プライドに目を曇らせず、現実をありのままに受け容れる勇気が必要」ということになるでしょうか。

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