リアリティ・トランサーフィンの考察⑮『バリアントの流れ:サイン』
前回の記事のおさらい
バリアントの流れに逆らわず、かといってただ流されるのでもなく、流れに沿って動きながらも、自分で舵をとるということ。これがトランサーフィンが推奨する生き方です。そして、そのためにはまず重要性を手放して、滝や早瀬や渦のない穏やかなものへとバリアントの流れを変える必要があります。
流れが穏やかになればエネルギーの余裕が生まれます。この浮いたエネルギーは本来の人生の目的へと向けられるべきものでした。あらためてエネルギーにあふれた状態で穏やかそのものの流れを見てみると、そこにはいままで気づくことのなかったものが現れてきます。
それがバリアントの流れにひそんでいる小流でした。この小流をみつけて、それに乗ることができるようになることこそが、理性にとっての豪華な贈り物であるというわけです。この小流は文字通り小さいため、その全容をすこし距離を置いたところからなら一望できます。その視点で小流を眺めると、そこにはものごとの因果関係(問題とその解決方法も含む)が暗号化された状態で存在しています。
たとえば、理性の弱まった状態にあるときに問題の解決方法が直感的にひらめくことがありますが、小流をとらえてそれに乗るというのは、こういうことだと考えられます。また、直感が働いたという自覚がなくても、どういうわけか簡単に解決できてしまった、というときはやはり小流に知らず知らず乗っていたということでしょう。
さて、どんな時にも直感がひらめけばよいのですが、そういうことばかりではありませんね。では、直感に頼れないときには、偶然に小流に乗られることを期待するしかないのでしょうか? いや、そんなことはないとゼランドは言います。バリアントの流れが変わるときには、それを前もって知らせる「サイン」がある――今回はそんなお話です。
サイン
幸運のサイン、吉兆、よからぬことの前触れ、嵐の前の静けさ、などなど、よいにつれ悪いにつれ、なにか変化が訪れる前に、それを予め知らせてくれているような出来事があるという考えは、トランサーフィンに限らず、おそらく世界中に存在していると思われます。
わたしも常々、こうしたサインを見逃さないように注意深く生きているつもりですが、それはやはり、「すべてはひとつ」だということを知っているからです。「すべてはひとつ」なので、自分と世界はおなじ一つものです。であれば、外側の世界で起きたことはなんらかの形で自分自身の身の上に反映されるものであり、その逆もまたしかりです。
シンクロニシティが起きるのも、これとまったく同じことです。見かけ上は偶然に意味のあることが連続して起こるわけですが、本当は、おなじこと(たった一つの意味)が形を変えてあちこちで起きているだけです。
すなわち、サインと、その後に起こるなんらかの事象は、本質的におなじものが時間と形を変えて現れているものです。その観点でいえば、すべての事象は、別のなんらかの事象のサインであると言うことができますが、人間の知覚には限界があるため、それらのほとんどは読み解くことができません。
それでも「いい感じのとき」、つまり理性が大人しくしてくれていて、直感が冴えているようなときには、無数に存在し、つねに現れているサインの中から、そのときの自分にとって意味のあるものをピックアップすることができます。
さて、トランサーフィンでは、バリアントの流れが変わるときにサインは現れると考えます。もっと見ていきましょう。
この引用文に書いてあることを図にしてみました。ツールを使って作成するのが面倒くさかったのでホワイトボードにフリーハンドで書きました。このため見栄えはよくないですが、たぶん、これでよく分かるはずです。
この図の全体がバリアント空間におけるバリアントの流れ(の一部)を表しています。そして、点々と描かれている小さな長方形の一つひとつが情報セクター(あるいは単にセクター)です。この図には5本のセクターの列がありますが、1本の列には基本的におなじ周波数の出来事が並んでいて、下から上へと時間が流れます。つまり、下が過去で上が未来です。
となり同士の列は、それぞれほんの少し、周波数が異なる出来事の並びということができます。その人の発する周波数が変わらない限りは、同じ列のセクターにあるイベントを順々に経験していくことになりますが、なにかのきっかけで周波数が変わると、基本的にはとなりの列へと移動します。周波数が大きく変わるようななにかが起きるときには、もっと離れた列へと移動しますが、そういうことは滅多にしかありません。
さて、いま誰かが右から二番目の列をまっすぐ進む人生ラインを歩んでいるとします。行く先には☆印のあるセクターが存在していますね。この☆印はそのセクターにサインが存在していることを表しています。
そして、☆印のセクターの上には斜めになったセクターがありますね。これが小流です。小流は分かりやすいように斜めにしていますが、基本的にはほかのセクターと違いはありません。ただ、そのセクターで起こる出来事にたいしてその人がどう反応するかによっては、右隣の一番端の列へと移動する可能性があるということです。
その人がそこでどう反応するかは、その前のセクターにあったサインに気づくことによって周波数が変わったかどうかによって決まってきます。もしサインに気づくことがなく、周波数が変わらなかったなら、その人はそのまま同じ列を進んでいきますが、図にあるように、そこには不運な出来事が起こるセクターが待ち構えています。
うまくサインに気づいて、そこで周波数が変わっていれば、直後に訪れるセクターで小流に乗って、この不運な出来事を回避できるわけです。
ほかの3つの列も同様ですが、不運を回避できる列からはすこしずつ遠いですね。ですからその分、サインに気づかない可能性もすこしずつ高くなると思われますし、仮にサインに気づいたとしても、より大きく周波数が変わらない限り、不運を回避できる列までは移動できないかもしれません。しかし、それでも可能性の小流は複数のラインを横断して存在しているということですね。
この図はとても単純化していますが、たとえば左端の列においては、この☆印のサインを見逃したあとにも、今度はより左側の列へと不運を回避できる可能性があるかもしれません。
実際の人生においては、人生ラインが変わったことに明らかに気づけるようなことはあまりないでしょう。というのは普通はすぐ隣のラインへと移動しているだけで、それは周波数でいえば、ほんのすこしの違いでしかないからです。とはいえ、ちょっと前とはなにかが違うような気がする、ということはありますよね。それがそれです。
問題はというと、それがサインなのか違うのか、どうやって見極めればよいのか? ですよね。しかし残念ながら、はっきりとこれがサインだ、と見抜く方法はありません。そういうときこそ魂に快か不快か、それともなんでもないか、聞いてみるよりありません。ただ――、
別のラインに移動するということは、別の周波数の流れに入るということです。ですから、移動した直後には、なんらかの違和感があり、それが警戒心を引き起こすということです。これは別の視点からみれば、コンフォートゾーンが変化したとみなすこともできるでしょう。コンフォートゾーンとは文字通り、人が快適でいられる条件の範囲を表しますが、ここでは詳しく述べません。気になる方は、苫米地英人博士の本に詳しいですからぜひお読みください。
また、ついでですが、苫米地先生のこの本は絶対に読んでおくべきです。
ちょっと余談になってしまいますが、いわゆる心理学と悟りを結びつけて探究しようというスタンスはお勧めできません。実際、そういうスタンスの人は多いです。心理学とはエゴ(自我)がどのような機能と性質を持っているかを分析し、その見地からさまざまなメンタルの問題にアプローチしようと試みる学問です。つまり、一言でいえばエゴの取説を作ろうというものです。いっぽう、悟りというのはエゴの中身にはなんの関係もありません。悟りはエゴが幻想であること、幻想という言葉が受け入れづらいという方には、エゴは知覚によってできた錯覚の産物であることが、悟りが起きたといわれる人には分かっちゃうということです。
言いかえれば、心理学はエゴを内側から見ていて、悟りはエゴを外側から見ています。ですから、心理学を究めるその先に悟りは待っていません。しかしながら、その幻想であり錯覚の産物であるエゴがいかに脆いものかは知っておくべきでしょう。その点で、苫米地先生の著作以上に優れたものをわたしは知りません。
さて本題に戻ります。
次は、気づくことの出来たサインをどう解釈するか? というところですが、解釈は無限に可能ですから、あまり突き詰めて考えないほうがよいということですね。むしろ、肯定的か否定的か、というくらいシンプルにした方がよいとゼランドは述べています。そして、いずれにしてもその解釈に精度を求めすぎてはいけません。なぜなら、そうなると解釈それ自体が過剰ポテンシャルを生んでしまうからです。
またゼランドは、サインを受け取ることの主なメリットは悪い出来事を回避できることにあると言います。
よいことの前触れとしてのサインは、べつにそれに気づかなくても、よいことはやってくるとも考えられます。なかには、サインに気づいて、それによってなにかアクションを起こせた結果として幸運を手に入れられるということもあるでしょう。それでも現実的には、不運を回避できることのほうが恩恵は大きいかもしれませんね。
かといって、サインを気にしすぎて不安になりすぎたり猜疑心に駆られることのないように、とゼランドは注意喚起していますが、これもサインそのものに重要性を与えるなということでしょう。
サインについての記事もあと少しになってきました。
サインには色々なものがあるでしょう。シンクロニシティもサインそのものといえますし、いわゆる迷信とされているようなことも、その人がそれを多少なりとも気にするのであれば、それはサインとして機能するでしょう。
ほかには、タロットカードや易占、ルーン占いやオラクルカードといったものも、人為的にサインを発生させるテクニックであるとみなすこともできます。すべては一つの観点では、こういうものもまさにサインです。
ゼランドは、なかでも重要なサインは「人の発言」であると言います。しかも、それはたまたま、何気なく発せられた言葉だそうです。これは、わたしも同感です。
「なんでこの人こんなことを言うんだろう?」というとき、それを言った人になんの悪気もないのであれば、その言葉は聞くに値します。また、他愛のない会話のなかで「あ、そうだったんだ!」とか「そう、それ前から思ってた」と感じるとき、その言葉はあなたにとってなんらかの意味があるはずです。
この世界で起きることすべてのうち、人が経験できることのなかでもっとも意味深く、もっとも貴重なものは、他者との会話(対話)だとわたしは考えています。それも、この一連の記事でずっと言い続けている「すべては一つ」からきています。すべては一つなら、自分も他者もおなじ。他者が自分に言ってくれる言葉と、自分が頭の中で考える言葉(思考)は、見かけが違うだけで、本質的にはおなじことです。であれば、どんな人であれ、誰かが自分に言葉を掛けてくれているその言葉を軽視してはいけないのです。
ただし、ゼランドがいうように、偶然、何気なく発せられた言葉というところがサインという観点ではポイントです。逆にいえば、そうでない言葉というものは、それを発する人が、なんらかの重要性をその言葉に与えているので、気をつけて受け止めなければ、それが生み出す平衡力に巻きこまれかねません。
最後はサインを「はい(肯定的)」と「いいえ(否定的)」のいずれと解釈するかについての注意点です。
ここでも理性が判断を迷わせてくるのですが、判断に迷うときは「いいえ」と心得ておけばよいでしょう。魂が「はい」といっているとき、そのときにはおそらくワクワクやそれに似た感情、感覚があるはずです。このときはなにも問題ありません。
問題になるのは魂が「いいえ」「ノー」「危険だ」と感じているときです。魂がその感じを伝えていても、理性は「いや、でも……」とか「これは気のせいに違いない」と魂のメッセージを横におしのけ、決断をイエスにするために理屈をこねくり回すものです。「普通に考えて――」と。
理性はつねにものごとが理屈通り、常識的に進むと考えがちです。また、理性はいつもよい結果を想定してそれを期待していますから、基本的に最初から結論ありきなのです。ですから、悪いことのサインと思われることを目にしても、そちらを無視してそれを否定する理屈(ストーリー)を作りたがるわけです。
魂がイエスのときは、理性がこのように働くことはありません。ですから、なんであれその判断を下すために自分を説得する必要があるのなら、その判断は誤っている可能性が高いということですね。
今回で第1巻の内容を終わらせるつもりでしたが、案の定、サインだけで長くなってしまいました。次回は「状況から少し距離を置く」ということについて書いていきます。それでは、読んでくださってありがとうございました。
相変わらず高いですねえ🤔
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