リアリティ・トランサーフィンの考察⑩『重要性について』
ここまでいくつかの記事にまたがって過剰ポテンシャルという概念について解説してきました。今回は、そのまとめ的な内容となります。
ちなみに過剰ポテンシャルについて書かれている部分は、本の中では『バランス』という章になっています。過剰ポテンシャルとは平衡状態(つまりバランスのとれている状態)を乱すものです。過剰ポテンシャルに気づき、これをうまく解消することによってバランスを取り戻すこと。そしてなにより、過剰ポテンシャルを産みださず、バランスを失わずに生きること。これがこの章の主眼であり、トランサーフィンの基本ということになっています。
さて今回は『重要性』について考えていきます。ここでいう重要性は、一般的に用いられる重要性とまったく同じ意味と考えてもらって結構です。なにかを重要と考えていることを、なにかに重要性を与えている、とトランサーフィンでは表現しています。
重要性には二つの種類があるとゼランドは言っています。ひとつは『内的重要性』で、もうひとつは『外的重要性』です。
内的重要性とは、自分に向けられた重要性で、自分の長所や短所への過大評価という形をとります。プラスであれマイナスであれ、その評価が適切なものでなく行き過ぎている場合、それが過剰ポテンシャルとなります。
外的重要性とは、外側の世界の事象に対して大きな意義を与えるときに生じるものです。これについてもプラスマイナスいずれの場合も、過大に評価している場合に過剰ポテンシャルを産みだします。
ここでお気づきの方もいると思いますが、今までに取り上げてきた過剰ポテンシャルのパターンのすべては、この内的重要性と外的重要性のいずれかに当てはまります。つまり、過剰ポテンシャルの本質は、ものごとに重要性を与えることにあるというわけです。
ものごとに重要性を与えるということを言いかえると、それは「何を問題と考えるか」ということになります。人間の知覚はそれ自体が二元性を生みだすような仕組みになっています。
なにかを重要だと考えるときには必ず、「重要なそれ」と「それ以外の(重要ではない)もの」という二元的な認識が起きています。この、それとそれ以外の区別をし、全体から部分を切り取ることによって、そこに問題が浮かび上がります。本当はすべては一つですから、全体性から分離した部分などというものは存在しません。それを存在するかのように認識させているのが人間の知覚の(主に左脳の働きによる)仕組みであり、この知覚を通して見ている世界が「二元性の幻想」と覚者たちが呼んでいるものです。
『問題がある』というとき、それはなにかを他のなにかより重要だと考えているということに他なりません。つまり、すべての問題の本質は、それに重要性を与えているということにあります。
ですから問題を解決するためには、問題の中身へのアプローチよりも、問題に与えている重要性を引き下げることが優先されるわけです。重要性を引き下げることは、すなわち過剰ポテンシャルを減らす、または解消するということとイコールです。重要性の引き下げについては下記のような記述があります。
内的重要性は自分に向けられたものですから、その気さえあれば内省によって是正することは可能です。それに比べて、いったん外側のものへと向けられてしまった重要性を直接変更することは困難です。
それに対しては「保険を掛ける」しかない、とゼランドは言っています。保険を掛けるとは、別の言い方をするなら、「重要性を相対的に引き下げる」ということになるでしょう。別の選択肢や代わりの案、うまくいかなかった場合の対応策などを用意して、それも一緒に天秤の皿に載せておけば、うまく釣り合いがとれる(バランスが取れる)かもしれませんね。
また、振り子と重要性の関係についても述べられています。
なにかに重要性を与えると、過剰ポテンシャルを産みだすだけではなく、その重要性から現れる感情や反応が振り子を招き寄せることになるというわけです。ここでちょっと、極端な例を挙げて、重要性と振り子についてもう少しみてみます。
独裁者という存在をとりあげてみましょう。
独裁者は自分のことをその国どころか世界で一番重要な存在であると考えているでしょう。これが内的重要性です。そして、彼の取り巻きや国民は同意のあるなしに関係なく、独裁者を最重要人物として扱います。これは外的重要性ですね。ここまで極端な状況で産み出される過剰ポテンシャルはとんでもないエネルギーでしょう。だとすれば、それに対して働く平衡力もまた強烈なはずです。
しかし、実際の例をみても、独裁者があっという間に排除されるようなケースはほとんどありません。もちろん、最終的にはクーデターで失脚したり、もっと悪い場合で暗殺されたりという結果になることも往々にしてありますが、それにしても相当な期間、彼らが独裁者として君臨できるのはどうしてでしょうか? それは、独裁者は独裁国家という振り子の一番のお気に入りだからです。
このケースでは、独裁者のあまりにも強烈な内的重要性がまずあり、この内的重要性に働く平衡力は、周囲の人々に彼に対する外的重要性を与えさせる方向で働いて、そこに特殊な平衡状態があらわれます。このバランスは非常に微妙かつ危ういものですが、それが成立する過程では同時に、独裁者のもつ思想や行動原理に共鳴する人々が現れてもいます。そうした人々が増えていくと、やがて独裁国家という破壊的な振り子が誕生します。
この振り子が存在し、それが力を持っている限り、君臨しているのは実は独裁者ではなく、独裁国家の振り子なのです。したがって、信奉者が極端に減ったり、ほかの強力な破壊的振り子(他の国の勢力や内部反逆者の勢力など)によって独裁国家の振り子が力を失うまでは、独裁者自身に働くはずの平衡力は抑えられているということになります。つまり、独裁者にとっては振り子は自らを守ってくれるものという風にみることができます。
一方で、独裁者に外的重要性を与えているすべての人たちにとって独裁国家の振り子はまさに破壊的です。強制的に働かされ、尋常でなく理不尽な規則(法律)で縛られてエネルギーを奪われ、独裁者を批判したり規則に違反したものは厳しく処罰されます。重要性と振り子が絡み合ってくるパターンとしては、こちらのほうが一般的でしょう。
以上、これはわたしが即席で考えてみた例ですが、このように世界や自分の身近なところで起きているさまざまな事象を、重要性と振り子という観点から読み解いてみると、面白いことが見えてくるかもしれません。
先ほど、重要性と問題について述べましたが、重要性を低くして生きるということは「なにかを問題だと考えることなしに生きる」ということです。これを更に言いかえると「なにも裁かず(評価せず)に生きる」ことになります。ここで注意が必要なのは、肯定的なジャッジも否定的な評価も、重要性を与えているという意味においては同じであるということです。
とはいえ、よい、悪い、という思いそのものはどうしたってやってくるものです。大切なのは「よいと思った」「悪いと感じた」そのときに、「だけどそれはそれ、それ以上でもそれ以下でもない」という風にさらっと流してしまうことです。逆に、その思いや感じに執着すると、その時点から重要性が発生してしまいます。
執着しないということは、世界中のスピリチュアルな教えが当然のこととして教えているものです。トランサーフィンはこうした教えとおなじ本質的なことを、エネルギーや周波数といった別の観点から説明しているといえるでしょう。いちおう、トランサーフィンは願望実現法の一種であるという触れ込みになってはいますが、こうして見ていくと、少なくとも安直で胡散臭く、かつ検証不可能な願望実現法の類ではないことが分かると思います。
前回の記事でも、トランサーフィンの観点からみればホ・オポノポノは潜在意識に存在している過剰ポテンシャルをクリーニングするテクニックであるとみなせますし、バクティ・ヨーガは過剰ポテンシャルを産まない生き方を強いる道であると解釈できることを明らかにしました。
智慧の道(ジュニャーナ・ヨーガ)をいく探求者は、可能な限り、さまざまな教えにあたるべきだとわたしは考えています。ノンデュアリティ、デヴィッド・R・ホーキンズ博士の著作、原始仏教、キリスト教神秘主義、禅、ヴェーダの聖典、グルジエフやシュタイナーやクリシュナムルティやOSHOなどなど、いろいろな教えを知ることによって、たったひとつの真理をさまざまな角度、観点から学べます。これによって、ひとつの教えだけでは突破できなかった理解の壁を超えられる可能性が生まれます。そして、わたしの意見では、そのなかにこのトランサーフィンを加えることはアリです。その利点は日常生活ですぐに活用できるところにありますが、最上の学びの場は、言うまでもなく日常の生活そのものにあります。
ここまでのまとめとして相応しい文章ですね。そして、この文章でもほのめかされているように、ここまでの話は「選択の自由」を手に入れるための方法についてのものでした。そうなると、じゃあ選択とはどういうことか? そしてどうやって選択するのか? ということが気になってきますが、それについては2巻の内容になります。1巻はあと2章あって、残すところは「誘導転移」と「バリアントの流れ」になります。
これらは今までの内容を踏まえたうえで、もう少しマクロな視点で世界をみていくものとなっているようです。それでは次の記事でまたお会いしましょう。読んでくださってありがとうございました。
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