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カルマは機が熟したときに現れる

 われわれは、かぎられた意識的な心においては、身におぼえのない、過去に招いたかもしれぬ道徳的負債の正確な性質を自覚していない。しかし、正直者の特徴である誠意と従順とをもたねばならない。そして、返済しようというひたむきな自発性をもって償うべく精進しなければならない。
 負債ということばは誤解を招きやすい。むしろ不足とか欠乏とか言ったほうがよいかもしれない。欠乏症は、からだに不足しているビタミンやミネラルを補うことによって克服される。不足がみたされるまでは病気は治らない。同様に、カルマが生じるのは、根本的な意味において霊性が欠けているためである。つまり、自己の霊性についての認識が欠けているために生じるのである。それゆえ、カルマから生じたもろもろの症状を矯正するには、この状態をひき起こした霊性の欠乏を補い、自らの霊的本性を自覚するようになることである。
 だが、カルマが負債とみられようが、不足や欠乏とみられようが、その償いが反抗の精神よりも自発的精神をもってなされるべきであることには変わりない。カルマの存在を否定することは、従順よりもむしろ反抗の精神を生むことになる。なぜなら、こうした否定は、自分の本性を永遠不滅の霊と見る広大な英知よりも、むしろ現在のつかの間のパーソナリティの利益にもとづく欲望とか我意をあらわしているからである。
『転生の秘密』ジナ・サーミナラ 7章 停止中のカルマ より

この本はかの有名な霊能力者エドガー・ケイシーの残した膨大なリーディングの中からクライアントの過去生について言及されたものを選び出し、そこに一貫してみられる輪廻転生の法則について研究した書です。

ここでは、前世やそれよりもさらに古い転生における行いが、なぜこの人生にカルマとなって現れるのかについて論じています。この引用部分の直前では、実際にそのような質問を睡眠中のケイシーにしたクライアントが何人かいたが、毎回決まってその理由は『それよりも前では、その人(の魂)はそのカルマに対峙して克服することができなかったからだ』と回答されていると述べられています。

つまり、ある行いに対する報い(よい報いも悪い報いもあります)は、その人がそれを受け取る準備ができたときに初めて現れるということです。ゆえに、この人生でよくない行いをし続けている人が必ずしも存命中に痛い目をするわけではありませんし、人知れず徳を積んだとしても、それによってその人生が救われるとも限らないということです。このことを、「カルマの停止」とジナ・サーミナラは呼んでいます。

ある行いの結果としての非常に大きなカルマが4つ後の人生で現れるとします。すると、その間の3つの人生においては、そのカルマは停止しており、代わりに他の課題に取り組むことになります。その取り組みによって、総合的に機が熟した段階で、それがつまり4つ後の人生でということになりますが、現れるのです。その時には、その人は4つ前の人生の時よりもいくぶん成長しており、その大きなカルマと向き合うことが可能であるという、神あるいは宇宙の全体性による采配です。

ですから、どんなにつらく苦しい境遇であっても、その人にはそれを受け入れて乗り越えるだけの力があるということです。以上のことを踏まえて、引用部分の内容を味わってください。

なお、一般的にはよい行い(調和的な行い、利他的な行為:徳)に対する報いは比較的早く現れるでしょう。なぜなら、それを受け入れることは容易いからです。でも、同時によくないカルマが現れているような人生においては、徳を積んでいてもなかなか苦しいこともあるかもしれません。しかし、そのような人はけっしてそこから逃げることもないでしょう。

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