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今北産業とわたし

今北産業というネットスラングがある。「今来たばかりのわたしにこれまでの流れを3行で教えてください」という意味だ。これを究極に端折ったなれの果てが「今北産業」である。もはや質問するのも面倒くさいが、なにか面白いことが起きているなら蚊帳の外には置かないでほしいという雑な希望にあふれている。
こんな失礼な問いかけも、虚礼を重んじない場所ではわりと役に立つ。どれ、俺様がここらでほどほど機転のきいたまとめをしてやろうという親切な回答者はけっこういるものだし、膨大なログの中の3行まとめは夜道に落ちている白い小石のように、頼りない街灯にもてらてら反射して方向を教えてくれる。ROMの人魂が、質問者の後についてぞろぞろと流れていく。

本を出してから、パブの話がぼちぼち来るようになった。「何か面白い話してよ」ならともかく、すでに形となった本について話すくらいならなんとかなるだろうと思ってのこのこ出ていったところ、そこでは「今北産業」は川に流す笹舟ではなく、名指しで降ってくる槍だった。
「あなたは普通なら気持ち悪いと思われるものについて本を書いたわけですが、なんでこんなものに魅力を感じているんですか?」
「こういうものが好きな女性が最近増えているんですか?」
「あなたにとって○○とは、簡潔にいうと何ですか?」
「もっと短く」
「もっともっと短く」
「ひと言で言ってみましょう」
情けないことに、わたしは今北産業されるたびにおおいにうろたえ、怒る。去年あんなにいろんな場所に足を運び、睡眠時間を削ってキーボードを打ち続け、勢いあまって倍量書いてしまった文章を同じ時間をかけて字数制限に合わせるほど、書きたいことも書くべきことも尽きないように思われたが、そのわりにこの本には無駄なことしか書かれておらず、「簡潔に」と言われた瞬間、全センテンスは蒸発して空に昇っていってしまう。出てくる人たちの金言は彼らのものであり、わたし自身の財産ではない。

照明の中で昇天していく活字を見つめ、よろよろしながら頭を下げて外に出てくると、そこにはちゃんと本が残っていて、夢から覚めたような気持ちになる。amazonのレビューや、わざわざ書店を回った人が述べてくれた感想の言葉や写真も消えていない。
実際のところ、わたしが今北産業にタレントのような超冴えた回答をする必要はなく、そこそこにへどもどしていればいいのだ。「気持ち悪いとされるものの本をちょっと意外な立場の素人が書いたが、なにか楽しそうにしている」という事実すら、わたし一人の力では狭い交友の輪の外に届けることはできない。
とりあえず多くの人の目に触れれば、なにかを間違えて3行どころか300ページ超の本を手にとる人もいるだろう。途轍もない無駄、途方もない贅沢の森をいっしょにうろついてくれる人も、少ないけれど必ず出てきてくれることだろう。

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