見出し画像

見たことのない色の鮭

漫画家の高野文子さんの本『ドミトリーともきんす』(中央公論社新社)を、編集者の田中祥子さんに送っていただいた。高野さんの、なんと12年ぶりになる漫画の新刊作品集だ。

http://matogrosso.jp/tomokins/tomokins-13.html

イースト・プレス社のWeb文芸誌・Matogrosso(マトグロッソ)で、一部を読むことができる。

http://dormitory-tomokins.tumblr.com/

『ドミトリーともきんす』特別サイトはこちら↑。

とも子さんと娘のきん子が営む、小さな2階建ての学生寮「ドミトリーともきんす」。そこには4人の科学者の卵たちが下宿している。朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹。とてつもなく変な科学漫画だ。製図ペンで引かれた線は静かで柔らかくて、コーヒーとケーキを囲んだ静かなおしゃべりが、空想と好奇心を科学という軸に乗せて、凍った湖面を滑る石のように素晴らしい速度で広がっていく。科学について書かれた本を読むときの喜びが、高野文子さんにかかるとこういう表現になるのか!線って、絵ってすごい。

この本のよさについては、高野さんの本を何年も辛抱づよく待ち続けていた素晴らしい漫画読みの方々が、懐かしさと新鮮な驚きとともにすてきなレビューをたくさん上げてくれている。実はわたしがここで書きたいのは、この本の全体構成と各章に添えた文章も手がけている編集者の田中祥子さんのことだ。わたしがこの4月に書いた本『ときめき昆虫学』(イースト・プレス)も、実はサチコさんのくれたメールからすべてが始まり、編集していただいて出版することができたのである(えっへん)。

サチコさんからお誘いのメールをもらって、本にする前提で虫についての文章を連載することになったとき、わたしは「これまで何人かの編集者さんと話をしたけれどみんな『虫はちょっと…人気がなくて…』って言っていたのに、サチコさんは物好きだなあ、多少は売れる本にならないと申し訳ないなあ」とのんきに考えていた。しかし、サチコさんは当時すでにJAMSTECの地球生物学者・高井研さん著『微生物ハンター、深海を行く』やライターの藤井久子さん著『コケはともだち』など、生物や研究者の本を多く手がけていて、彼女の決して前に出ない、しかし退かない姿勢には、その後1年半ほどかけて驚かされつづけた。

『ドミトリーともきんす』の発刊に際して、深く納得できる言葉があとがきに書かれていた。

-----------------------(以下「あとがき」より引用)-------------------------

田中祥子さんという編集者さんがいました。

いつも鞄に自然科学の本を入れている人です。

何冊かお借りして読んでみたところ、わたしの知っている読書とは違う感じがしました。

小説の読後感とは違うのです。

乾いた涼しい風が吹いてくる読書なのです。

-------------------------------------------------------------------------------

「最近、自然科学の本を好きでよく読んでいる」という高野さんに「じゃあ、それを紹介する漫画を描きませんか」と言ったのがサチコさん。実はサチコさんの担当した本たちのあとがきには、こういう種明かしの割合がすごく高い。新書系の知識を紹介する本はもうたくさん書いたなあ、という比較解剖学者さんの研究室に通って「じゃあ、遠藤秀紀さんの書いた『日記』が読みたいです」とか。

著者や科学者との交流も、それぞれ5年や10年という時間をかけている。下手したら高校生のときから文通してたりする。ファンレターを書いたり、トークを聞きに行ったりして、その場では生きものや科学のことを楽しく話して、ある日ふと「それについて書いてみませんか?」という言葉が出るのだと思う。川の流れにたたずんでいたと思ったら、次の瞬間には大鮭をくわえている熊のように。別に我慢して冷たい流れに浸かっているのではなく、たぶん川に入ること自体を楽しんでいる。

これがごく当たり前のことだと思える人は、息の合った仲間と素敵な仕事ばかりしてきた運のいい人だ。どこかで一発当たった新書のテーマの名前をすげ替えただけの企画書をもらったり、喫茶店に呼び出されて「サブカルのニッチはどこもここも焼け野原なんですよ。まだ出してない変わった趣味とかないんですか?どうなんですか?」と聞かれたり。相手のことをよく知る前から自分の描いた絵にはめこもうとする、そんな仕事のほうが効率的だと考える人は多い。

サチコさんは今、どこの川でどんな景色を見ているのだろう。次は誰と、どんな見たことのない色の鮭を打ち上げるのだろう。わたしもこれからいろんな仕事をがんばって、そしていつか見たこともない色の卵を持つ鮭としてサチコさんの待つ川に帰っていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?