カイエ【第二章】

【書きたいことを書けばいい】

言うなれば、
小説家を目指してる方は、
小説は自分の書きたいことを書いていればいいのである。

小説家を目指していない方にも通用する根本的態度ではないだろうか。
文学はとくにそういったキャパシティを本源的に所有している。

ブコウスキーや梶井基次郎は、
とにかく自分の書きたいことだけを書いた。
ブローティガンなんかもそのケがあるし、
西村賢太もそうであろう。

そして多くの私小説作家もそうである。

エンタメ系においても道尾秀介などは、
ミステリ畑にしては珍しく、想定読者は自分だけだとかつて豪語した。

比喩って有能です。
二つの像が二アリー・イコールで結ばれることで、描写が立体的になります。

平面に奥行きができ、三次元になります。

比喩は二次元的な描写を三次元的立体にする、という訳なのです。

己のトラウマやら生々しい経験を相対化し、作品において寓意化できるなら、
それは、とてつもなくオリジナリティに満ちた武器となるであろう。

哲学書、哲学論文が退屈なのはポエジーの放縦も描写の奢侈がなく単調なのだ。

そして恐ろしくも抽象性の高い数学のように述語を並べ立てることに美学を反映させる。

難しいことをいかにわかりやすく書くかという妥協にも似た諦念。

それは哲学の厳密性においては限界があり、よくもわるくも高踏的にならざるを得ないのである。

創作活動も仕事も常に7割程度のちからで動く。

今日できることの三割はあしたにまわす。

それができれば、自分も含め、すべての生き物は、少し楽になると思うのである。

名付けるならば『反マックス活動論』。

これは人間の経験知である『腹八分』に近いが、さらにそこから一割下げる。

すべての学問は人間にしか許諾できない、そんなスケールの知でしかない。

人間的スケールの真理である。

それは、すべての過去・現在・未来において、人間が存在することが確認できる期間において、人間の人間による人間のための知に過ぎない。

いきものは誰しも、巨大なわたしという荷物を即座につめこむことのできる特大のエコバッグを緊急用に携帯しておくべきなのかもしれない。

煙草、酒、合法ハーブを含めた薬物中毒、ギャンブル、不倫、常軌を逸した変態、やくざ、宗教ビジネス、搾取者、資格商法も含めた詐欺師、マルチビジネス、貧困ビジネス、さまざまな不正受給者、詐病、ブラック企業、天下り、コネ、八百長、賄賂、科学教の排他主義、国家規模の環境破壊、ポイ捨て、絶え間ないスピード違反、あらゆる違法行為、外形的な差別主義、内形的な差別主義、身体的精神的暴力沙汰、すべてのハラスメント、行う偽善、行わない偽善、悪意あるアフィリエイト、闇市、堕胎、望まない出産、ネグレクト、仮面夫婦、誹謗、中傷、名誉毀損、人権侵害その他。


不道徳な行為は毎秒毎秒、世界のあらゆる場所で更新されている。

もちろん人間であるわたくしの自我という不道徳も含めて。

モナドには窓はないが、モラルには窓がある

煎じ詰めて言えば、西田幾多郎における絶対無の場所とは『楕円形における二つの焦点の絶え間なき交換』である。

新約聖書のことば、とくにパウロ書簡群に至っては、あまりにことをうつくしく盛り過ぎていて、わたくしのこころには響かないのである。

響かない程度には、ものごとを見極める目はもっている、ということでもある。

うつくしい聖書のことば。

そのうつくしさも度を越せば、たいへんに嘘くさいのだ。

そりゃあもちろん、神なんて物理的には存在しない。
しかし、幻想としては【リアル】に存在する。

現実存在としての、共有幻想である。

自分以外の誰かひとりでもいい、同じ幻想を共有できれば、それはリアルである。

確固とした現実。

僕にとっては、チビやウィッシュやしろはぬいぐるみではない。

人類が、人類だけに、人類だけに理解できる言語で、人類のためだけに、解明することができたとして、何になろう。

宇宙を解明できたとしても、それは、人間だけにしか通用しない。

【人間的スケール】の真理に過ぎない。

すべての学問は、端的に言って無意味だ。

動物のなかで、実は人間こそが、もっとも退化したいきものかもしれないのだ。

支配をするものが、実は支配されているかもしれないという可能性。

人間は人間を信用し過ぎてはならない。

人間の知恵は人間に都合のよい論理でしかない。

そして、地球には寿命がある。

そして、宇宙はどうなるか。

人間は至上の存在ではない。

人間の生み出した論理、公式、科学、それだけに依拠すると、真実を超えたものから遠ざかる。

無論、地球も太陽もおわる。

それを予測することはおそらくできたのかもしれないが、ともかく人間に都合のよいかたちでしか、文字やことばは通用しないのである。

そして世界は……。

完全な闇という空間を再現できるのだろうか。

人間は、光子が三つある空間では、不完全な闇を認識できる。

では、光子がまったくない空間では、何が見えるのか。

科学は哲学から生まれたもの。

科学が不完全なのは、哲学がそもそも不完全だから。

しかし、最も愚かなのは、完全や不完全という二値論理に規定されてしまう思想。

そして己も含めた、人間。

仏教はおおらかであたたかみのあるセルフ・マインド・コントロール・マニュアルであり、タナトフォビアを誤魔化してうっちゃるための修行実践法だり、人間のためだけの方便に過ぎない。

キリスト教における神の国という理想郷も、神と繋がるためのマニュアルである新約聖書同様にその場しのぎのレトリックに過ぎない。

科学は世界解読マニュアルとして実利的な聖典に比すべきであるが、当然それは人間のみに有効な記号の集積に過ぎず、世界の解読法として唯一の可能性ではない。

愚直なほら吹き男爵が初っ端に、大言壮語をぶちはなした旧約聖書の『創世記』

人間は神の似姿、つまり神のかたちにかたどられた存在として登場してきたのである。

原理主義者たちは『創世記』におけるその件を拡大解釈することで、正当化するはめに陥った。

言わば、こじつけの聖なる歴史の汚辱、神々しい詭弁の尻拭い、それらの繰り返しに中毒のように依存し続けているのだ。

わたくしは神を信じてはいないが、神ということばが、自然の摂理、必然性、もしくは可能性ということばに置き換えられるならば、全うな信者となっていたかもしれない。

わたくしは、わたくしをヨブやカバやワニよりも知的であるなどとは思ってもいないので、このたわごとがキリスト教に関係する人々に影響を与えることはない、という逃げ道を確保しているという点でおぞましく、ぶしつけで、あわれで、愚かで、汚らしい、つまりより人間的に人間であるということを理解していただけると思う。

わたくしは、信じる信じないに関わらず、世界とは完全無-完全有(かんぜんう)である、と主張することしかできない。

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