カイエ【第一章】

『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三さんのような人間が今こそ必要なんだと思います。
彼のような生き方は、損をする生き方だ、とは思わない。
孤高を気取ってるとも思えない。
勇気を促す人間だと思った。

心地の良い破調の歌とは何か。
定型と内在律とのせめぎ合いの中で生まれてくる、ギリギリのレトリックを浮き上がらせた歌であろう。
破調の数寄屋造りや破調の茶器も同じであり、内在律という個人的なリズムが定型のリズムとどう兼ね合いをとるか、というバランシングの妙が重要なのではないか。

タロットカードを引くということは可能性を引くということだ。
引く人間に可能性の物語を提供することだ。
もしくは無限にある選択肢のなかから、占い師がその人のために、ひとつの可能性(糸)を提供し、運命を変えるための手助けをするということである。

日記体の小説は山ほどあれど、自分が19歳の終わりに読んだ高野悦子さんの『二十歳の原点』が忘れられぬ。小説ではないのだが小説的いや散文詩的である。
あの一篇が長大な詩。
自分が日記体小説を偏愛するのも『二十歳の原点』の影響だろう。
ただし、日記の総体がひとつの詩としての統一性を保っているような作品に限る。

科学は哲学の範囲内である。
哲学は科学の範囲内である。
どちらも正しいだろう。
それはベン図によって解決される程度の問題。
【アキレスと亀の追いかけっこ】は今でも続いているが、それはあらかじめ解決している真理を分析しようとした、人間の愚かさを象徴しただけに過ぎないことなのかもしれない。

たとえニーチェの永劫回帰の思想に【差異と反復】の可能性が潜んでいるとしても、その差異は必ず無を通過しなければならず、物理学的に一旦0にならざるを得ないため、差異を差異として認識できない。
その意味では高遠なようでいて、素朴実在論(それもたちの悪い方の、素朴を演じる実在論)に近い。

タイトル
【ありふれた三行詩】

夢見がちな大人でもいいだろう

夢を見て耀きたいと願う人間を

どんな法律も咎めることはできぬ

神や天はなぜ人を無欲にしなかったのか。
流体力学や、物理学、生化学などで解明できない摂理があるのだろう。
【言志録】を読んでいてふと思う。
神や天や仏という概念も人間の【欲】に過ぎないのではないだろうか。

売上総利益(粗利)

営業利益

経常利益

税引前利益

当期純利益

ポエジー

植物には植物の真理があるように、引力には引力の真理があり、宇宙には宇宙の真理があり、生ゴミには生ゴミの真理があり、つまり、人間の真理はひとつの真理であり、互いに関与できず、最も理解すべきは、真理には真理の真理がある、ということ。

真理はひとつではないということ。

そのような警告を発した昔の哲学者の言い分も一理ある、ということだ。

どのような真理も後々不正確であることがわかる。

どのような真理も主体の属する種にしか通用しない。

よって、真理はない、とも言える。

アートは公開オナニーではない。
アートはアート作品を介して、制作者と鑑賞者とが時空を超えて交合するのがアート。

アート、つまり芸術であるかいなかは、その作品の性的喚起力に依存している。
性的とは美的エロティシズムと同義である。

エロティシズムとは時空を突き抜ける能動性である。

自分の所有する歴史的経験はほとんどすべて詰め込むべきだ。

所有している香水の数々や淫らな性癖、超高価な下着や高価なグルメ体験、底辺の修羅場における格闘などなど、もしもあなたが(わたくしも含めて)そのようこアイテムを保持しているならば、小説や詩に援用してみるべきではないだろうか! 

誰も彼もが持ち得るものじゃないかもしれないのだ、その個的経験知は。

つまらない景色、状況、現場を、ちゃんと無機質でつまらないもの、つまらない今として描くとき「つまらない」が「つまる」にメタモルフォーゼする瞬間に遭遇することがある。

たとえば小説で言えば、梶井基次郎の『橡の花』なんていう作品は昇華されて「つまる」作品と化している。

なにも起きなくて素敵な小説。筋などないが上出来な小説。 それは思弁系小説。

ヘンリー・ミラーの『北回帰線』は、ある意味なにも起きないし、リルケの『マルテの手記』だってそうだ。

『くまの子ウーフ』だって、幼いながらに哲学的な自問自答や会話が作品の核になっていて事件性が重要ではない。

幻想小説の基本は、
へんなひとを見たり、
へんなひとがやってきたり、
へんないきものに会ったり、
へんなものを見つけたり、
へんな目に遭ったり、
へんな状況を目の当たりにしたり、
へんなことをしに行ったり、
へんな行事に参加したり、
へんな場所に行ったり、

と、それだけであり、
それだけであればあるほど、
真に迫ってくるのである。

【仲裁の知恵】

ウィッシュとしろが鏡を奪い合っている

なんと鏡は半分に割れてしまう

背後からチビが仲裁に入る

チビは手鏡をチビ・バッグから取り出して

それをチョップで半分に切って

ウィッシュとしろの鏡の片割れのそれぞれに気合だけでくっつけてしまう

ほらこれで

「しろくん、ウィッシュくん、おとなしくしなね~」のできあがりー!

リチャード・ブローティガンはデリケートなナビゲーターである。

何をナビゲートしてくれるか。

それは、ポエジーをである。

ポエジー・ナビゲーター。

彼のあだ名(わたくしだけが使用している)である。

たとえば『西瓜糖の日々』は作品全体がいびつに美しい比喩であり、比喩はポエジー醸成器である。

さらに、リチャード・ブローティガンの比喩は卓抜だった。
多くの現代詩人が隠喩のとりこになって、後々自爆テロをおっ始めたようなのだが、ブローティガンの繊細でいて大胆な、可能性と不可能性との間に裂け目を生じる直喩は、自死することなく今の時代にも嬉々として、鎮座ましましているのだ。






 


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