下書き溜まっていく問題を考えてみる【2023.12.25日記】

メリークリスマスですわ~~~~~!!!!

挨拶は明るく景気良く。現実ではできないのでせめて文字だけでも。

体調が少しずつ良くなってきたので、三日ほど前から活動を再開することを考えていた。現状を振り返ってみたり、心身の健康状態を見たり、今後についてあれこれ思い描いてみたり。やるべきことやしたいことが少しずつ日常に戻ってくる。それと実際にできるかは別問題だが、今は思い詰めないよう流れに任せてとりあえず手を動かしている。今は本拠地東京を離れて横浜に滞在していて、その環境も手伝ってる感アリ。しかしキーボードがいつもと違うので使いにくい。というか、英語仕様で無理やり日本語打ってるから、無変換キーは無いし言語の切り替えは左上だし、バックスペースもないし何より矢印キーがついていない。ここの家主は矢印キーとテンキーの存在しないキーボードでどうやって生活してるんだろう…。

で、だ。筆が乗らないなりに実は書こうとは何回かしている。その結果として当初の「記事内容のクオリティは多少生焼けでもいいから、文章の体裁を整えながら週一公開を目途にコンスタントに書く」という方針はあまり守られていない。「流れに任せて」と言ったように、これは自分のリズムを作るためでもあったので今一度見直したい点だ。正直言えば一個一個をきちんと仕上げたい。何日もかけて、自分の主張にきちんとデータや裏付けを乗せて届けたい。
しかし、データ云々はともかく、気合いを入れた前回の記事はそんなに結果に満足していない。タイトルやヘッダーに力を入れてハッシュタグもボコボコ入れた結果なのか、たしかに閲覧数の上昇は確認できる (*1)。それでも、スキをしていただいた回数は少ないし、内容が受け入れられたという実感があまりないのだ。だしまあほら、気合い入ってるかどうかってクオリティとあんまり関係なかったりするし、MUSASHI-GUN道-だって構想12年を謡ってたのにとんでもないことになっちゃったし……。

「便りがないのがいい便り」じゃないが、自分の主張をより魅力的で正確に伝える技術が欠けていたと考えれば、結果が芳しくないのは大した問題ではない。反応が悪かったトピックに帰ってきて改めて記事にすることだってできるだろう。それでも時間がかかって下書きも続々と増えてまうのは、なるべく後から訂正したくないからだ。ファクトや自分の考えをきちんと整理しながら書くことによって、自分の事実誤認や読者の誤解を避けたいという気持ちが強い。
しかし!なのに前回の記事は怖くて見返せない。反応が悪かったからではない。あんなに頑張ったのに間違っていたらどうしよう、自分の本心と違う表現をしていたらどうしようと内心おどおどしている。ゆえに見ないフリをするのだ。おそらく現実的に考えてそんな怖い状態にはない。が、そうした恐怖は向き合わないと増大するので、気づいたらパラガスぐらいの雑魚だった感情がブロリーへと進化する。さながらブロリーを前にして「勝てる訳がない…!」と尻込みしているヘタレ王子状態なのだ。

溜まってゆく下書きも多少そういった荷の重さがある。「どこだったっけ」から始まり、文章の調整から始まって結局終わらない。そうした下書きでも今後のレファレンスにできるので無駄ではないのだが、下書きの量産は自分の目的に反する行為だ。
そもそも、センシティブなトピックでなければ、ニュースなどを取り扱うのでなければ、それほど正しさは重要ではないのかもしれない。声高に主張したい内容があるから記事を投稿するとはいえ、大事なのは読んだ人が何かを感じることのようにも思う。他人におもねるわけではないが、自分の主張が100%正確に伝わっているか気にしているのはどう考えても自分だけだ。どのみち表現力の限界や読み間違いで誤解・誤読が起きうる以上、正確性に意識配分を割きすぎるのはよくないように思えてきた。

十日~二週間ぐらいの頻度で更新を続けられているのはいいが、内容の精査や校正に拘泥して活動が滞るのは本意でない。たまには肩の力を抜いて、しかし抜きすぎずこんな記事を書くのもいいのかもしれない。案外こんなものが人の役に立ったりもする。前回の記事もいつか見直してセルフ校正してみようかなあ。いつかは帰れるといいなぁ…!

(*1) ちなみに、タイトルに「日記」と入ってるとアクセス数がぐんと下がる。なんなら「note始めました」の記事より閲覧数が少なく、公開している記事の閲覧数ワースト4すべてが「日記」。タイトルに日記の二文字を入れないだけで読んでくれる人が増えるなら、そのぐらいの気遣いは喜んでしよう。逆に、こういった記事だったら「今回は読み飛ばしても大丈夫だよ」「気合い入ってないよ」というアピールに使えると思ったり。

まんじゅうこわい

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