「迎賓館」に友人をお迎えした日

 8年前のその日、御茶ノ水の駅で友人を待ちながら、昼食はどこがいいかと考えていた。
 オーストラリア・パースに住むMさんとの再会は5年ぶりだ。翻訳会社に16年間勤めていた間にできた、唯一の友達である。Mさんは社員ではないがレギュラーの翻訳者だった。わたしとは翻訳の文体も似ていて年齢も近く、徐々にプライベートのことまで話すようになっていった。
帰国のたびに連絡をくれる彼女とは、その都度会って話をするのが楽しみだった。
 今回も、東京に1週間ほど滞在するという連絡を受けた。これまではわたしの勤務先の近くで会ってきたのだが、もう辞めたのだから、他のところのほうがよいかもしれない。「どこにしましょうか」と聞いたら「『東京』っぽいところ。わかりやすい駅だと助かります」と返ってきた。
 「『東京』っぽくてわかりやすい」と言われれば、大学時代の2年間過ごした御茶ノ水だ。自宅から御茶ノ水は比較的アクセスがよいため、大学卒業後も、母校の図書館や古本街を巡ったりするために何十回と来ている。土地勘もあるから動きやすいし、JR御茶ノ水ならば駅のつくりが単純で、待ち合わせても行き違いになりづらい。
 ランチはどこがいいかなぁ。ちょっと気取ったレストランか、学生街らしさもある静かなカフェもいいよね、でも、まずは希望を聞かないと。彼女は5年ぶりの日本なんだから、と考えていたら「お久しぶり~!」とMさんが歩いてきた。相も変わらずカッコいい。
 「まずお昼食べましょう。何がいいですか」とたずねる。イタリアンか洋食か和食か、どれでもある程度は知っているから、その中から選べばいいはずだ。
 するとMさんは「食べるものはなんでもいい。それより、窓があって、外が見えるところがいいですね」。うーん、景色が重要なのかなぁ。もっと見晴らしのいいところにすればよかっただろうか。
 ちょっと後悔しかけた瞬間、閃いた。「あの、庶民的なんですがビルの17階にある食堂なんてどうでしょう」とおそるおそる切り出し、足をリバティタワーへと向ける。
 そう、目的地はここの「スカイラウンジ暁」である。素敵な名前がついてはいるが、どこにでもある学食だ。Mさんに「えーと明治の学食で、食堂の雰囲気で食堂のメニューですが、ビルの17階で大きい窓が三方にあります。景色はビルばっかりであまり美しくはないですが……」と説明すると「そこにしましょう!」と即答された。
 明治の卒業生であるわたしは、都心にくると、母校で昼食をとることが多い。もちろん誰でも入れる(卒業生である必要はない)し、なんといっても値段が安い。
 メニューも豊富だ。学生御用達の大盛りラーメンやカレーだけでなく、中高年に優しいメニューもあるのだ。昼時には、近隣に勤める男性や高齢者がひとりで定食を食べている姿がしょっちゅう見られる。
 食品サンプルを眺めつつ「わたしはいつもここでは『健康定食』にしているんです。ご飯と味噌汁、煮魚に、野菜の小鉢が2つついています」というとMさんは「わたしも同じので」と言う。
 昼食の時間からは外れていたせいか、窓際の席が空いていたので「ここにしましょう」と手招きすると、とても嬉しそう。
 Mさんは「安いし、窓が大きくていいですね。わたし、実は軽い閉所恐怖症で、窓がないところはダメなんです」と言う。そういえば、エレベーター内でもずっと外を見ていた気がする。
 そうか。大事なのは「景色がよい」ことではなく、最初に彼女が言ったとおり「窓があって、外が見える」ことだったんだ。
 話は弾んだ。食後にはケーキとコーヒーも追加で注文したが、それを合計しても、ひとり800円未満であった。それからまた駅まで一緒に歩き、「また連絡ください」「連絡します」と言って別れた。
その後ずっと音沙汰がなかった。わたしは退社後、自分が生計を立てていくことだけに必死になっていた。たまに頭の片隅に彼女がよぎっても「忙しく過ごしているんだろうなあ」と思って8年間が過ぎた。
 Facebookの「友達」としてつながっているけれど、元々SNSにあまり書き込むタイプではなかった彼女のページには、ずっと何の投稿もないままだった。
 ところが先日、「私が死んだらこのメッセージを投稿するよう夫にお願いしました」という文字列を見つけて、慌てて投稿の続きを読んだ。
 「私は卵巣がんに罹患しましたが、これまで充実した時間を過ごすことができました。ラッキーで幸せな人生でした」、そして家族への感謝の言葉があり、最後は「たまに、たまに私のことを思い出していただければ嬉しいです」と結ばれていた。
 8年前、また会えるとあっさり別れてしまったけれど、あれが最後だったんだ。学食で「健康定食」を一緒に食べたのが……。
 もっと高級なお店に案内すればよかっただろうか。予め探しておけば、窓のあるお洒落なレストランを予約することもできたかもしれない。
 いいや、と自分に首を振った。御茶ノ水、いや東京中で自分がいちばんよく行くレストランに大事な友人を案内したのだ。Mさんの笑顔は見せかけではなかった。わたしが案内した母校の学食を気に入ってくれたことは間違いない。
 健康的な食事、安価、お茶とお水は何杯お代わりしても無料、デザートとコーヒーを入れても800円足らず。オープンキッチン、大きい窓があって広々とした空間。それが、わたしの「迎賓館」である。
 これからも、大切な人と会うときはマイ迎賓館にお連れしよう。東京でいちばん素晴らしいレストランへ。

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