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仕事中の唯一の楽しみは

「実習に来て一番の楽しみって何?」

その昔私がまだ看護学生だった頃、精神科の実習で訪れていた病棟の男性主任さんに問われたことがある。

「えーと、そうですね…」

思わず口篭ってしまった私たち実習生。正直実習中の楽しみなんて無いのだ。右も左も覚束無い病院で、病態生理もあやふやな患者さんの看護をするのは緊張感との戦いだし、家に帰っての大量の記録物や事前学習、レポート作成のことを考えると「ああ、今日も寝れないのか」と絶望的な気持ちになってくる。かと言って、咄嗟に当たり障りのない建て前が出てくる程、当時の私たちは成熟していなかった。実習メンバー全員が返答に困っていると、主任さんが笑顔でこう言い放った。

「お昼休憩でしょ。お昼休憩のお弁当くらいしか楽しみないもんね~」

ああ、それだ。私はぶんぶんと頭を縦に振った。

「俺なんかお昼のお弁当のこと考えて仕事してるからね」

主任さんの背中に後光が見えた気がした。この人は私たちのことをよく分かっていらっしゃる。実際、私たちの学校の主な実習先となっている大学病院は厳格で、実習のときにこのように場を和ませてくれる人などいなかった。指導は厳しく、時に怒鳴られ、褒められることと言えばやる気くらいのもの。看護師の先輩たちは皆、味方であり、敵でもあったのだ。実習生は皆恐る恐る看護師に声を掛け、実習を通して「あの人は優しい、この人は恐い」と、各々の看護師を見極めていく。しかし、この主任さんは一瞬にして私たちの心を掴んだ。遊び盛りの学生は、こういう気の利いた冗談のような会話が大好きなのだった。流石精神科の看護師というのか、「心に寄り添ってくれている」感じにびくびくと怯えていた心が解れた。若い頃の、そんな何気ない会話がとても印象に残っていたりするから不思議だ。

赤の他人と話をするとき、特に職場の上司と関わるとき、「この人は冗談が通じる人か否か」で気の合う合わないを判断してしまう癖がある。私はいつだって軽口を叩いていたくて仕方がないのだ。だから、私の評価は総じて「ふざけている人」なのだが、それでも良い。場の雰囲気が緩めば、誰でもその場に居やすくなるし、話もしやすいじゃない。私が職場で「先輩」と呼ばれるようになって、何人かの可愛い後輩と話をするときも相変わらずその調子だったので、わりと皆気さくに話しかけてくれた気がする。まず安心感がないと意思の疎通は図り難いものだ。緊張感のある関係を築くのは好かないので、私はいつもこのスタンスで世を渡っている次第である。

そう、昨晩夫のお弁当の仕込みというものをしてみたのだ。いつも夕飯の残りと、卵焼きやウィンナーなどの簡単なものを朝にさっと詰めるだけのお弁当だったので、少し夫が不憫になったのだ。夫にリクエストを聞き、オムライスと唐揚げの仕込みをして、その間に冒頭の言葉を思い出したのだった。毎日一生懸命働いてくれている夫もきっと、唯一の楽しみはお昼休憩なのだろうなと想像すると、いつもいつも手抜きのお弁当ではあんまりだと哀れに思われた。だから本日のお弁当は気合いのハートマークすら乗っけた(海苔でオムライスにハートマークを付けただけ)夫の好きなものだらけのお弁当を持たせたのだった。

楽しみな時間がより楽しみになるように、それが私の妻としての使命だと思っている。

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