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賢く生きない憧れと、賢く生きてしまう私

私は平凡な人間だと自認している。
特出しているところがなさすぎて、逆に珍しいかもしれない。

秀でている才があるわけでもなく、
人に褒められる容姿でもなく、
熱中する何かもなく、
使命感あふれる仕事をしているわけでも、
大きな夢を持っているわけでもない。

自分で書いてて虚しくなるくらいの、
平々凡々、日々をこなすのに精一杯の一般庶民である。

子どもの頃の自分のあの「無敵感」はなんだったのだろう。
成長するにつれ削がれていってしまった、あの、自分はナンバーワンなりオンリーワンなりのトクベツな何かがあるだろう、と心の底から思っていた自信は。

ある意味、削がれてくれて良かった。
削がれることなく今を迎えていたら、さぞ傍若無人な人間に育っていただろう。
(しかも実力が伴っていない。)

平々凡々な私だが、平々凡々だからこその特技とも言えるが、
幼少期から要領が良い方だったと自負している。
幼少期の勉強では躓かなかったし、
周りの大人に気に入られる振る舞いを考えて動く嫌味な子どもだった。

要領は良く、早めに物事を覚えるので、周りに褒められる。
ただ、残念なことに、要領が良い「だけ」なのだ。
才も気概もないので、一定のラインに行くとそこから伸びない。
最初は褒めて期待していた周りも、いつの間にかいなくなる。
そして、気づいた時には、
自分よりずっと遅くに一定ラインに到達した別の誰かの背中を遠くに見ているのだ。

そんな穿った子どもだったので、子どものころから、国民的アニメと言われるものは悉く嫌いだった。
ドラえもんに、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃん等、子どもならば皆見たであろうアニメが、小さい頃から嫌いだった。

例えば、のび太くん。
ジャイアンのテンプレないじめにいつも遭って、やり返さないとか、
当たり前に毎度ドラえもんに泣きつくところとか、
お母さんに怒られると分かってるのにテストで悪い点を取るとか、
幼い頃から見ても共感ができなかったのだ。

毎話学習せず、律儀に同じような失敗を繰り返す。
先に挙げた国民的アニメの主人公たちは、子どもの頃の私には、揃って要領が悪く見え、苛立ちのようなものを感じたのだ。

今思えば烏滸がましい上に可愛げもないなとおもってしまうが、
要領がよく生きてきた私には、今だに主人公たちの思考は共感できないままだ。

ただ、大人になって、何人にも越され、背中を見てきたからこそ思う。
あのアニメの主人公たちにある「要領の悪さ」の根底にある「愛嬌」だったり、「愚直さ」だったり、「諦めないこと・継続すること」だったりが、皆に愛される由縁なのだろうと。
そこが、要領が良いとされる私が超えられない一定ラインを超えるのに必要な「トクベツな何か」なのだろうと。
主人公たちへの共感ができないことへの嫌悪とは別に、コンプレックスを刺激される憧れからくる反発心の嫌悪もあったはずだ。

大人になって、頭で理解はしていても「賢く生きない」という選択肢を私は選べないのだ。
むしろ、大人になってより一層、卒なく要領よく全ての物事をこなすようになってしまった。

賢く生きないという、
才能でもあり、信念でもあり、努力でもある選択を憧れながら、
今日も私は、きっと賢く生きてしまう。

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