日常的に死ぬ── 虚無とたたかう

「虚無とたたかう」という言葉は僕のものではない。

とりいさんが12月の頭からクリスマスまで定期的に更新していた一群の文章の大見出しとして使われていたものだ。

そこでは虚無の説明として、

”人間が安心して眠ることを妨げる「今日も何もできなかった」という焦り”

”やるべきことを見つけられないまま人生を終えるんだろうなという諦め”
  

   (とりい「「虚無とたたかう」アドベントカレンダー始めます」)

という例が挙げられている。

更に「虚無とたたかう」の小見出しである「自分の破滅を生きる」の中で、

”虚無とは今日の続きが延々と続く苦しみ”
                 
(とりい「自分の破滅を生きる」)  
とまとめられる。

つまり虚無とは、

 ・大したことのない現状が、
 ・これから先もずっと続いていき、
 ・何も為さず人生を終える気がする

という「現状への不満」と「繰り返しを脱出する見込みの薄さ」の2つの時間軸で自分を悲観しているステータスと言える。

今の自分に満足できないが、かといってその解決も望めない状況に至った時人は「逃避」する。

別の人生があると思おうとしたり、その微かな前向きさすら持ちえない場合には、お酒や薬の力を借りて理知を断ち切る方向に進む。


先日、「Midnight in Paris」(Woody Allen / 2011)という映画を観た。

生活のために脚本家を続けざるを得ない自分に不満を持ち、1920年代のパリへの憧ればかり語る主人公、Gilに対して

「Golden age thinkingは現実の問題に対処する能力を持たない、夢見がちな人間の欠陥」という批判がぶつけられる。

しかし、Golden age thinkingは個人のせいにされるべき問題だろうか。社会の主要な参加者である企業組織が、分業と人材の代替可能性を前提とし、労働者に「前任者の繰り返し」を求める以上(ループを要求する以上)、「虚無」は人類共通の課題として倒していくべきなんじゃないだろうか。

だって、映画の中でGertrude Sterinも言っていたのだ。

"芸術家の仕事は絶望に屈することではなく、人間存在そのものがはらむ虚無感への処方箋を見つけることだ"と。

(全然関係ないけど、読んだことない著名な作家の名前を文章に使うのって、何かズルしてる気分になる)

さて、そこでこの人類共通の課題の解決策として提案したいのは「日常的に死ぬ」ということだ。

ここで言う死とは現実を離れることを指す。

働くこと、家事をすることといった生き残るために必要なさまざまな活動を一旦視界から外すのだ。

虚無の原因になっている人生から離脱することで、冷静な判断力を取り戻し今一度、人生に具体的な対処をとっていけるようになる。

具体的にどのような行動をさすかと言うと、例えば死を手に入れるポピュラーな手段として旅がある。

労働・生活の根ざしている土地からロマンスカーで一気に距離をとり、体をきれいにする、以上の理由を持って大きなお湯につかる。社会人になると急に温泉旅行が増えるのは、虚無とたたかうためだと思う。

僕も温泉旅行がとても好きで、
箱根・三島・那須塩原など東京から電車一本で行ける温泉にたくさん行った。

しかし虚無への対抗策とするにあたって温泉旅行には大きな欠点がある。

時間とお金がかかることだ。

プライベートに割く時間やお金が足りなくて虚無になっているのに、その処方箋が時間とお金だなんて、不条理だ。やっていられない。

だから、もっと時間とお金をかけずに気軽に死ぬ方法として「銭湯」を提案したい。

先日、生活に疲れ切った友人から銭湯に行くお誘いを受けた。行き先は巣鴨にある「東京染井温泉Sakura」という温浴施設である。

染井温泉はいわゆる町の銭湯とは方向性が違う。露天風呂や岩盤浴、食事処まで併設された大型の温浴施設なのだ。

ただし、大型と聞いて多くの人の頭に浮かぶ「スーパー銭湯」とも趣を異にしており、敷地に一歩足を踏み入れた時に見る景色は温泉旅館のそれだった。

そもそも、今思い返せば旅館と錯覚させる(?)彼らの企み(?)は、現地に着く前から始まっていたようだ。

染井温泉は巣鴨駅から400mほどの場所にあるため徒歩でも10分とかからないのだけれど、そこは「お年寄りの原宿」こと巣鴨、駅から温泉までシャトルバスが運行されていた。

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僕らがバスに乗っていた時間は5分程度だったが、その一瞬があったことでバスから降りる時にはすっかり「山中のお宿に来た湯治客」の気持ちにされていたと思う。

さて、門を入るとまず季節の草木が植えられた小庭が目に入り、その奥には湯上り姿で食事をする先客達の姿も見える。

画像2

受付を終え、これまた旅館然としたロビーを抜けると3つの露天風呂やヒノキの内湯を備えた湯浴み所があるという寸法になっている。

もちろん、ロビーは旅館に比べて人がたくさんウロウロしてはいるのだけれど、木製調の床や壁と淡い照明、湯の香りの作る旅館オーラを壊すには至らない。

友人と僕は露天風呂に浸かりながら、

「今本当に23区にいるんだっけ...」
「外でたら山道に雪が積もってそう」
「除夜の鐘聞こえてきても違和感ない」
「今日が仕事納めの気がしてきた!」

と時間も空間も分らなくなってしまっていた。

そもそもこの企画は、仕事が忙しすぎて人生の意義が分らなくなった友人の虚無を癒すことを主目的にしたものだったのだけれど、 温泉を後にする頃には、「今の仕事を続けるか、他に移るか利点欠点を含めて検討してみる」という所まで回復していた。

虚無の原因となっている現実を一時的に離れたことで、判断力を取り戻し、現実に戻ってきてから根本的な問題に対処していく力が湧いたんだろう。

こういった質の高い死を高頻度で生活にとりこんでいくこと、それによって人生を分断していくことが、僕なりの虚無との戦い方だ。

電車賃含めて2,000円、休日の終わり数時間で生活から脱出することの出来る染井温泉はとても極力な武器になってくれそうだ。

ただし、一つだけ気になることがある。

お湯から出て会計に向かった僕たちが、店員からかける第一声が「おかえりなさい」だったことだ。

恐らくだけど、建物の中にいる間僕たちは別の世界に飛ばされている。

千と千尋の神隠しのように現世に帰ってこれないなんてことが無いよう、内部での言動には気を付けて通いたい。

#エッセイ #人生

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