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ドグダミにシンパシーを感じる子供だった

ひんやりした場所が好きだった。
仄明るくて、ひんやりしていて、静かで、さらりとしている場所。小さな頃から太陽がさんさんと降り注ぐ場所よりもそういう空間に惹かれた。

庭で遊ぶにしても玄関に面した日当たりの良い砂場より、裏手の離れに向かう日の当たらない通用路で座っている方がしっくりきた。

ブロック塀にもたれかかって座っていると、ときおき風が吹き抜けていくのが心地よかった。通用路のわきにはかさかさとした緑色のドクダミが、隠れるようにして群生していた。砂場のそばに植えられたツツジや水仙より、勝手に現れてときおり白い小さな花をつける彼らに惹かれていた気がする。

家の中でもひんやりした場所を探していた。

特に気に入って根城にしていたのは階段だ。
昔ながらの日本家屋である実家の、ずっしりした木材で作られた階段。座っているとなんだかしんみりした気持ちになるのが心地よくて、図書館で借りてきた本を積み上げて何時間も居座ったりしていた。

それから、もう1つ気に入っていたのが北の縁側だ。家の北側に増築した仏間に続く廊下は、壁のほとんどが大きな窓になっていた。にも関わらず、その立地のため日当たりが良いとは言えず程よい明るさだった。
夏になるとそこに布団を敷いて眠る。
長い廊下にぽつんと寝転び、窓の外に広がる田んぼを見ているといつの間にか眠りに落ちているのだった。

今考えると、通用路でぼーっとしたり、階段で読書していたり、廊下に布団を敷いて寝ようとしたりする子供というのは親としては心配になりそうなものだが、僕の両親は特にやめさせようとするでもなく、日の当たる場所で活発に遊ぶよう指示することもなく好きにさせてくれた。

先日帰省した際、母親が「子育ても3人目ともなるとね~、慣れてきてもうやりたいようにさせとけば良いかって思うようになったの」と言っていた。妙な場所で落ち着いている僕を見て、気にはなりつつ放任してくれていたのかもしれない。

そんな訳で、物語などで冬眠する熊を見ると非常に羨ましい。
自分だけの、薄明るくて、たぶんひんやりとした空間。
僕が憧れてやまないものだ。実家で飼っていた犬は自分で掘った穴と縁の下という、理想的な場所を2つも持っていて熊の次に羨ましかった。

大学生の時、秩父旅行で鍾乳洞に行くことになった時は「ついに自分も理想の穴を見つけられるのか」と期待したが、観光地化された洞窟は照明の発する光と熱に晒されて「穴蔵」と呼べる状態ではなくがっかりした(ゴツゴツした岩肌の中を登ったり降りたりするのは探検隊のようで楽しかったが...)。

そのようなひんやりした場所を探しながら生きている僕は、死後の世界が楽しみだ。

骨壺に詰まった状態で納められる墓石の下の空間、あそこはきっと静かでひんやりしているだろう。ちょっと明かりは足りないかも知れないが、明るすぎるより暗すぎる方がよっぽどいい。

母親は「死んでまで狭いところに居るなんてまっぴらごめん。自分で手配しとくから海に撒いてほしい。」と霊体での海外旅行を画策しているが、僕にとってはそっちの方がまっぴらごめんである。

自分の人生が終わったら、骨壺に収まって重厚な石の下でいつまでもいつまでもぼーっとしているつもりだ。

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