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殴られる妻

長女が幼稚園に通っていた時、親しくさせてもらった奥さんがいた。

ほっそりと痩せた上品な奥さんだった。
二人の息子さんがいて、上のお兄ちゃんは優秀で私学の小学校に入った。
長女と同じクラスだった下の息子さんは、奥さんやお兄ちゃんとは全く違った性格で、顔つきも全く似ていなかった。

先生の話を聞かない。自分勝手に行動する。暴れる。駄々をこねる。

幼稚園の子供なので、ある程度はみんなそうだ。
しかし、彼は少し落ち着きがなかった。絶えず何かに抑圧されているような不機嫌さを内包した子供だった。

ここの幼稚園はしつけに厳しいことで有名。
特に長女のクラスは、一番の『お受験クラス』(うちの娘は二人とも公立に入学。お受験はしていない。)、ヤンチャな彼は目立ってしまっていた。

彼にはいい面もあった。
「虫」にものすごく詳しかった。
虫を観察している時の彼はとても集中していて、説明は理路整然としている。

近所には「好きなことを思う存分させ、子供の力を伸ばす」教育方針の幼稚園もあった。
しかし、通っていた幼稚園は時間が来たら教室に入り、席に着く、そういうけじめをきちんと教えていく方針。
はさみやクレヨンをうまく使えない彼は机の前でふてくされていた。

しかし、彼のお母さんは「乱暴者」の彼にこそ、きちんとしたしつけを幼稚園でも教えてもらいたいと願っていた。
担任の先生にも「きつく叱ってください。」と繰り返し頼んでいるのも見かけた。
そして、上のお子さんの時と同じように小学校受験用の塾にも通わせていた。

優秀だった2才上のおにいちゃんと、どうしても比較される弟。
塾でも、勉強よりも時間内の間、ちゃんと着席していることだけで精一杯。
(国公立小学校の入試問題は、相当な集中力が要求されるので大人でも難しい。少なくとも私には合格点を取る自信がない。)

それでも通わせていたのには理由がある。
子供たちの学費は全ておじいさんが出していた。

おじいさんは会社を経営されていて、将来は血縁の者に譲りたいと願っていた。
しかし、一人息子(彼らの父・奥さんの夫)は、どうにもグウタラで見込みがない。
そこで優秀な孫に期待をかけていた。

会社の社長である父にバカ呼ばわりされ、無能のレッテルを貼られ、どやされる毎日。
ご主人は毎夜、酒に酔い、寝過ごし、昼過ぎから出勤。
社内での風評は益々悪くなり、身の置き場がない。
しかし、今住んでいる高級マンションの最上階の部屋も父が買い与えてくれたものだし、生活費も社長である父からの給与、子供たちの学費も父が支払ってくれている現状…。

酔っ払って帰宅したご主人は、深夜であろうとわめき散らした。
「お前が悪い!」と奥さんを罵倒し、殴り、蹴り飛ばした。
「出て行け!!」「お前なんかいなくなれ!!」

それでも奥さんは、ご主人のつらい立場を理解していたから耐えていた。
ご実家にはお兄さん家族が同居していて、一時避難にも行きにくかった事情もある。

ある夜、荒れに荒れて帰宅したご主人が怒鳴り散らした挙句、
マンション最上階の部屋の窓を開け放し、奥さんの髪を引っつかんでベランダに追い出して言い放った。
「ここから飛び降りろ!飛び降りて死ね!!」

そのマンションでは実際に投身自殺があったばかりだった。
奥さんはまだ警察が処理する前の、その現場を目撃していた。
背筋が寒くなり、本当に死の恐怖を感じた。
泣いて夫の腕から逃れ、「出て行こう」と決心し、深夜、眠っていた息子たちを起こし、荷物をまとめた。
・・・しかし、彼女に行く場所はどこもなかった。
酔っ払って騒いで、いびきをかいて眠る夫の隣の部屋で泣きはらして夜を明かすしかなかった。

もうすぐ卒園となった時期に、入学する小学校が別で離れてしまう私に奥さんは、この話をしてくれた。
あれから、もう5年経つ。
その奥さんとは一度も顔を合わしていない。
元気で、幸せにいてくれたらいいな、と思う。


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2002年6月の日記再掲。

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