見出し画像

連載『旅するコットン。』高知の旅【3】

第1話のお話はこちら
第2話のお話はこちら

木綿子は自分のくちびるが、ほんの小さく震えているのがわかった。
けれど相手は岡野だ。恐れや焦りのようなものはまるでない。
ただ、少しの緊張と、“岡野が目の前に座っている”ということへのたまらない気持ちで、胸がいっぱいだったのだ。

「というわけでね……、わたしが高知に行って、建ちゃんに食べてもらいたいと思ったものはこれなの」

岡野はふっと細長いまつ毛の隙間から木綿子を覗き込むようにして、
ほんの少しのあいだ戸惑っていたけれど、
「……いただきます」
と手を合わせると、そっといつもの箸を持ち上げてくれた。


話は、高知の宿に戻る。

*****

画像7

旅館の朝は最高だった。

事情を説明し、部屋にはひとり分の朝食が運ばれてきたが、
「これなら、ふたり分食べられたかもな……」
と欲をかいて、木綿子はそんなことを思った。

朝から鯛の切り身を食べている。めでたくもないのに。
けれど、昨晩眠った白くフカフカの布団のような米に乗せて頬張る鯛は、ぷりっとして歯ごたえが絶妙だ。木綿子はこのうえなく幸せな心地になる。
いったいなぜだろうか。

昨日まであんなにずきずきと疼いて仕方なかった胸のあたりも、あの大きな月に見下ろされてからは、ずいぶんと楽になった。
あまりにも見事なものを前に言葉を失うと、ひとは胸の痛みなど溶かされてしまうのかもしれない。
あの幻想的な光景を思い出すだけで木綿子の胸には、ポッと不思議なぬくもりと、ヒュッと不思議な冷たさが交互に宿る。

昨晩はタクシーでもぐっすりと眠ったけれど、湯船にたっぷりと浸かって、部屋でビールを開けたなら、半分も飲みきらないまま、また布団でぐっすりと眠ってしまった。
これもまた、疲れと“月の力だ”と木綿子は根拠なく感じていた。

それにしても。
小さいながら小綺麗な共同浴場があり、朝食もこんなにおいしい。奥まった場所にある、こじんまりとした、しんと静かなこの旅館を、岡野はどのようにして見つけたのだろうか。

「なんで、ここだったんだろう……」

朝食を片付けてもらったあと、大の字になって寝そべり木綿子は考えてみた。座布団に頬を預けてよくよく思い返してみる。

「塩……」

そう、岡野は「桂浜」「かつおのたたき」そして、「天然塩を作りたい」と繰り返し木綿子に言っていたのだった。
もっとも木綿子には「塩を作る」の意味がわからず、特に気に留めてることさえしていなかったのだけど。
「天然」もなにも、「塩」など海にいくらでもある。海水を干して売っているものが「塩」じゃないのだろうか。

岡野が以前送ってくれていたメールには、この旅館のこと、そして「天然塩を作る体験」のことも記載があった。
もちろんこちらもきちんと予約がしてあって、仕方がないのでほんの少し辺りを散歩したあと、時間に間に合うよう、書かれた場所へとすたすたと向かった。

「近くに大きなお土産屋さんでもあればいいな……」

まだ岡野に贈る「いちばんおいしいもの」を、木綿子にはこれっぽっちも思いつけずにいる。
明日もあるとは言え、常にその焦りが木綿子の肩や背中をほいほいと後ろからせきたてていた。

到着すると、ここでもまた事情を話し「ひとりで体験したい」と告げた。最早、もう慣れっこだ。

「あら残念。でもおひとりでも歓迎ですよ」

母ぐらいの歳の女性が微笑んで迎え入れてくれ、木綿子はほっとする。
なんとあたたかい笑顔だろうか。

「高知はいい人ばかりだ。いい人しかいないのよ」

岡野には、それも忘れず伝えようと思った。

休日の谷間とは言え平日の今日は、比較的混雑もないから「ゆっくり体験できますよ」とおしえてくれる。
たしかに、同じ回を巡るのは小さな女の子を連れたひと家族だけだった。
まずは途中までの各工程を見て回るらしく、木綿子は案内係の女性と家族の後ろを付いて歩いた。

画像6


まずは海へとつながるポンプだ。これで海水を汲み上げている。汲み上げた海水は、タンクにひとまず貯水されるのだそうだ。

「すごいねえ」

女の子は母親のデニムの足にまとわりつきながら小声でつぶやいていた。
ただ「はあ、なるほど」と眺めていた木綿子だったけれど、こうして打ち寄せる崖下の海からポンプをつたって、こんな高い場所まで汲み上げている吸引力はたしかに物凄いものかもしれない。

そして、タンクの海水はさらに、学生のころ歴史の教科書の写真で見た「見張り台」のようなタワーへと上り、何度も何度もコーヒーがフィルターを通して落とされるように、布を通して下に落ちながら漉(こ)されていくのが見える。これが幾度も幾度もお日さまの下で続けられるのだ。

「天然……」

このときはじめて、木綿子にはその意味が少しわかった。
この塩は、ただ干しているわけでも、電気分解しているわけでもない。

そして濃くなってきた海水をさらにビニールハウスのような場所で、
木箱のようなザルを使い、ひとの手で均一化する。

「あついよう」

女の子の声で気づき、木綿子も汗ばむ額をそっと手で拭った。

画像8

「真夏はね、ここは50度にもなるんですよ。だけどとても大事な作業でね、早朝からここで塩と“対話”というのかな。しっかり目で見て塩と向き合って、撹拌(かくはん)していくんです」

対話……。案内する女性は、誇らしそうな笑顔でとても自然にそう言った。
木綿子はどうしてか、少しだけ居たたまれないような、なんだかそんな、不思議な気持ちになる。
しかし、それがどうしてかは木綿子にはよくわからない。
そのあと「にがり」と「塩」に分け、小さなゴミ取りを丁寧に行い、塩は袋詰めにされるのだそうだ。
汲み取られてから塩になるまで、夏場は1ヶ月もかかるのだという。

あまりに知らないことばかりを目の当たりにして、木綿子は袋詰めを手伝わせてもらいながら、これまでのことを考えていた。
女の子は夢中になってぎゅうぎゅうと袋に詰め込み、夫婦は「上手」と手を叩いたり微笑みあったりしている。

斜め向かいのテーブルで、年配の女性がひとり袋詰め作業をしていた。
ここで勤める人だろう。すぐ近い距離だったせいか、木綿子はなぜか自然とその人に話しかけていた。

「楽しいですか?」
「……え?」
「この仕事……、楽しいですか?」
「ふふ(笑)。楽しい日もありゃあ、どうやろうねえ、腰の痛い日もあるけど。他の仕事は知らんけどね、ここの天日塩がいちばんや思うから。好きよ」
「袋に詰めるのも?」
「わたしは袋に詰めるだけなの。細かいゴミ取りももちろんするけど」
「塩、作りたいとは思わないんですか?」
「なあに(笑)。作っとるやない」
「ああ、そうじゃなくて……」
「袋に詰めるのも、ゴミを取るのも、塩作り。均すのもね。見たでしょう、上から海水が散水されるのが問題ないか見に行きよるのも、全部全部塩作りよ。こうやって、この袋にシールを貼るのも。ほら、塩作りの工程を案内してくれた子がおったでしょ」
「ああ、はい。案内してもらいました」
「あの子もそうやって、人を呼んであんたらみたいな遠くからのお客さんに体験してもろて。この塩を知ってもらうわけでしょ。それもやっぱり塩作りよ」
「……」
「お姉さんは、なんの仕事しよんの?」
「わたしは……わたしは洋服を作ってる会社で。店舗の経営の状態とか在庫の状況とか、そういうのを取りまとめる仕事をしてます……」
「洋服作っとるのね」
「いえ、作っては……」
「ほしたら、何をしてんの(笑)。『いっぱい着てもらえたらええなあ』と思いながら、洋服の数、数えとんのでしょ?『この色がええんよー』思いながら、数えとんのでしょ?」
「わたしは……、」
思わずぽたりと涙が落ちて、木綿子は自分でも驚いた。
「思わんの?」
おばさんは、キョトンとした顔でこちらを見たあと、ただふっとゆっくり微笑む。

「どうしたの(笑)涙もしょっぱいでしょう。ふふふ」

丁寧に丁寧に作られた塩をゴム手袋越しに掴みながら、濡れた頬が風が吹くと少しだけ冷たかった。

画像4


わたしは……なにか大事なことを見過ごして、やり過ごして、やりきれずに。ずいぶんと勘違いして、誤魔化して、損をして、ここまで来たのじゃないだろうか。
「たくさんの人に着てほしい」「この色がたまらなくいい」。
思えば、木綿子はそんなことを考えて近ごろ働くことがあっただろうか。ただ数が合わないといっては洋服を掴み、パソコンと格闘しながら数を数えた。ただ並べ方が悪いと言われては洋服を掴み、上司の指示書を見ながら棚を作り直した。身近な誰よりも任されている店舗数が少ない!と近ごろは洋服を買う量も控え、岡野に不満をこぼし続けた。
わたしは——。
洋服と接するとき、いつだってしかめっ面をしているだけだった。


「ありがとうございました……」

木綿子は自分で詰めた塩の袋をぎゅっと握って、出口でお礼を言ったあと、先ほどの女性のところまでもう1度戻って、

「ありがとうございました」

と頭を下げた。

「ああ」

と言って、おばさんは顔を上げる。

「なーにがあったかわからんけどね、大丈夫よ。若いもん。なーんぼでもなーんとでもなるよ。泣かんでも大丈夫よ。またおいでね」
「はい」

そんなことを言われると、また涙がこみ上げてきてしまうけれど。
とにもかくにも。
なにかとても特別なものを得たような心地を抱えながら、木綿子の塩作り体験は終わった。

画像5


しばらく、木綿子は沖に座って夕日でパッと眩しいほどオレンジに染まる海を長らくじっと眺めていた。
昨日とはまた違う海の色で、「こんな色のスカーフが秋にあればいいな」と木綿子は思った。やっぱり木綿子は洋服が、とても好きで仕方なかった。

そして、「昨夜の浴場で浸かっていたときには似ているな」となんとなく思い出す。体の中もそして外も。奥底からじんわりしっかりと温まるような感覚があり、これまでのことをあれこれと思い返すのに丁度いい。
岡野に持ち帰るべきものも、木綿子は胸の内でちゃんともうわかっている。

*****

「というわけでね……、わたしが高知に行って、建ちゃんに食べてもらいたいと思ったものはこれなの」


東京に戻り、恐る恐るマンションの前まできたとき、閉めて出たはずの部屋の窓は空いていて白いカーテンがただゆらゆらとやさしく揺れていた。
——岡野は居る。
木綿子にはもうそれだけで、充分だった。

画像3

「いただきます。……かつおかな」

岡野が口元を緩めて少し微笑むけれど、木綿子は「ちがうの」と言ったように首を横に振る。

「かつおもね、せっかくだから家に送ったけど。もちろんおいしいよ。おいしいんだけど、これは普通の夕飯。ふたりで食べる普通の夕飯なの」
「普通の夕飯……」
「それがわたしのいちばんおいしいものだから。でもね、ひとつ違うのは、塩。全部“天然塩”で作ったの。わたしも作った。天然塩」
「え、ああ……行ってくれたの?」
「行くよ、だって予約してあったんだもん」
「ははは。木綿子ちゃん興味なさそうだったから(笑)どう?でもおもしろかったでしょう」

岡野は箸をすすめながら穏やかに尋ねる。

「おもしろかった。すごくおもしろかったし。わたし、なんかいろいろときっと間違えてた」
「んー?ねえ、木綿子ちゃん、このかつおすごくおいしいよ」

岡野はいつものように、次から次へとおかずを口に運び、きれいに順序よく米を食べ、おいしいおいしいと言って、食事をした。
岡野の方が料理の腕前は数段上ではあるけれど、木綿子が作ったものを食べるとき、岡野はそんな様子をおくびにも出さない。
ただ、「うまいぜよ!」の写真を見せたときだけは、「で、どれを食べたの?」と少し不思議そうに不満そうにはしていたけれど。


「あのね間違えてたの、わたし。きっと。いろいろ、全部。それで……」
「あっちで話さない?」

岡野が指差したのはベランダだった。
これまでも、ふたりはよくベランダで話をしてきた。この部屋は9階でほんのちょっと見晴らしが良かったのだ。
「夜景」とまで呼んでいいかはわからないが、周りの景色もよく見える。

スリッパを履き替えて外に出ると、5月の気候は程よくて、寒くも暑くもない。心地よい東京の夜風が、木綿子の長い髪を撫でる。

画像2


「あの日のこと、思い出してた。わたし、建ちゃんに『家を作ってない』って言ったけど、ごめん。そんなことない。作ってるよ。建ちゃんは作ってる。わたし、大事なことがよくわかってなかった。見えてなかったんだと思う。建ちゃんの仕事のことも、自分の仕事のことも。だからずっと。ずっと自分は、こんなにファッションが好きなのに、洋服を作れるわけでもない、雑誌も作れない、何なんだろう、って。こんなはずじゃなかったのに、ってずっと思ってたの。でも違った。わたしだって、洋服作ってたんだね」

そこまで一気に話すと、遠くを見つめていた岡野はゆっくりと体を向き直し木綿子を見つめる。

「木綿子ちゃんは……そうだね、作ってる」

こっくりと頷きながら、続ける。

「木綿子ちゃんは洋服も作ってるし、お店だって作ってるよ。一人前の販売員さんだって作ってるし、いろんなものを作る仕事をしてる人だと思う。ぼくは木綿子ちゃんと一緒にあのお店を作って。一緒にものづくりをして出会って、こうして今一緒にいるんだと思ってるよ」

風が、岡野の短い髪をすーっと掬いながら流れて、岡野は9階からの景色を左からゆるりと見渡す。

「灯りがまだいっぱいついてる。土曜日なのに。まだこの時間まで働いてるんだね。こんなにたくさん」
「本当だ」

オフィスビルからもたくさんの光が煌々と漏れていた。

「みんなさ、何かを一生懸命作ってるんだよ。灯りだって、道路だってそう。コピー機だって、建物だって、洋服だって。みんな、誰かが作ったものだ」
「うん。わかる。今ならわかる。わたし……」
「ごめんね」
「え」

岡野はベランダのフェンスに背中をぴたりとつけて、そのままうなだれるように座り込んでしまった。ならって、木綿子も同じように隣に腰を下ろす。

「あの日、怒ったわけじゃないんだ。うーん。正確には、木綿子ちゃんに腹を立てたわけじゃないんだ。だけど、少し気は立ってたと思う。でもそれは自分にだよ。木綿子ちゃんにじゃない。ひとりで飛行機に乗せるなんてこと、考えたこともなかった。申し訳ない、ごめんね」

それはよく知る岡野の、はじめて見る横顔だった。ぎゅっと眉間に皺を寄せ、両手の親指を顎に押し当てながら、大きな後悔をしている。
それが隣にいて、木綿子には胸が張り裂けそうなほどよくわかった。

「ううん、大事なことがわかったし。いいんだよ、高知は楽しかった。本当に行って良かったと思ってる。本当だよ、だから……」
「自分だって、ずっと言い聞かせてたんだ。ものを作ってるのは、最初に図面を起こす人と、最後に杭を打ち込む人だけじゃない。“途中”の仕事だって大切なものづくりで。自分も建物を作ってるんだ、人の居場所を作ってるんだ、って言い聞かせて仕事を続けてきたんだよ」
「うん、そうだね」

本当はそのことだって、とうの前から木綿子は気づいていたはずなのに。

「だけど、本当は木綿子ちゃんの気持ちもすごくよくわかった。もっとフイットする何か。ぼくの場合は……やっぱり設計がしたかったんだね。だけど、自分自身の仕事も大事なものづくりの一部を担ってるんだってことも、もっと人にわかって欲しかった。わかってもらえるように働くべきだったんだ」
「ごめん……」
「ううん。木綿子ちゃんとは一緒に働いたこともあるからね。もっともっとそういう姿勢であるべきだったって反省してた」

岡野はいつになく真剣な眼差しで、木綿子の目を見つめた。

「木綿子ちゃん。……ぼく、仕事。会社辞めるよ」
「えっ?」

突然の告白に、思わず声を漏らしてしまう。

「人が少なくて迷惑もかけるけど、もちろん大切なことはしっかり引き継いでいくつもりだよ。あの会社は良いものづくりをしてる。それは間違いないからね」
「そっか……」
「それで。また、設計の仕事を始めることにするよ。紹介で拾ってもらえるところが見つかったんだ。黙っててごめん。給与はね、たしかに。たしかにちょっと減るんだけど、でも実は、母校で営業や折衝の仕事について教える講座の手伝いもすることにしたんだ。一昨日と昨日はそれで学校に出かけてた。建築の知識があるからこそできる“途中”の仕事があるし、設計をする人間だって“途中”の仕事をしっかり知るべきなんだ。ぼくにしか教えられないこともたくさんあると思ってる」
「そっか……素敵だね、それ。うん、いいと思う」
「これからは設計の仕事もするし、窓口の仕事の大切さも伝えていく。全部全部ものづくりだから。代々引き継がれていくような家を作ったり、そこで、ずっと引き継がれていくようなことを少しでも伝えられたら……役に立てたらいいな」
「うん、そうだね。楽しみだよ、わたしもすごく」 

やっぱり岡野を好きでよかった。
木綿子にはもうその言葉しか見当たらないほどだ。

「それで……“最後のものづくり”じゃないけど。いつかは、自分が住む家を作りたいと思ってる。できれば、それは……木綿子ちゃんと暮らす家がいい。いつもボール紙で作ってたのは、恥ずかしいけど、一緒に住みたい家を考えてたんだ」
「そうなの……?」
「うん。だから、木綿子ちゃんも自分が着たい洋服とか、自分が作りたい店だとか。いろいろいつか実現できるといいね」
「うん。これからは……わたしも遅すぎて恥ずかしいけど。今後はそういうことを考えてちゃんと働いていくつもり」

それは、帰りの飛行機でも何度となく繰り返した、木綿子の心からの気持ちだった。

「あのさ、衣食住ってあるだろ。人の暮らしの基本。その衣と住を、ぼくたち作ってるんだね」
「ふふ、本当だ」
「頑張っていいものづくりしていこうよ」
「うん、そうしよ」
「そうやって仕事して、木綿子ちゃんとずっとこうして暮らしていくことが、ぼくの生涯やりたいことだよ。そうしながら、一緒に、家庭も作れないかな。なあんか、古い言い方かもしれないけど(笑)」
「建ちゃん」
「ああ、あ、便宜上、木綿子ちゃんって言ったけど、もちろんポン太郎も」
「ふふ(笑)そうだね」

不安に思うことは何ひとつなかった。これからは、自分の頭でもしっかりと考えて「わたしも」と、岡野と同じものを選べる気がする。

「このまんま。3人らしく良い家族が作れるといいな」
「うん。できるよ。きみも、もうひとりで飛行機にも乗れる(笑)」
「本当だね」
「それぞれが在りたい自分を大切にしながら。いいもの作りながら。それぞれ楽しく、みんなで一緒にいようよ」
「うん。それがいいね」
「ああ……」

岡野が突然ため息を漏らす。

「どうしたの?」
「ぼくも高知、行けたらよかったかな」
「ははは。その言葉が聞きたかったの(笑)。今度は一緒に行こうね」
「うん。そうしよう」

見渡す夜の景色が、いつもよりももっともっと輝いて見えた。
木綿子はこんなときも、この景色みたいなきらきらとビーズをたくさん散りばめたような……そんな深いネイビーのワンピースがあればいいのに、とやっぱり考えている。
5月のやさしい風が、ふうっといつまでもふたりを包んでいた。

画像1


エッセイ執筆の糧になるような、活動に使わせていただきます◎