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連載『旅するコットン。』高知の旅【2】

前編のお話はこちら

高知はよく晴れていて、七分袖のカットソーの中はすでに汗ばんでいた。

「1時間半も経ってないなんて」

木綿子にはずいぶん長い時間に感じられたけれど、高知までの飛行時間はそんなものだ。
「下調べに」と空港内のお土産屋さんも見てみた。芋けんぴや鰹節にカツオのフレーク……と、どれも味見してみたいものばかりではあるものの、建士のために持ち帰るべき「いちばんおいしいもの」を空港で調達しているようでは、何事も解決しないように思えた。

建物を出て振り返ると、「高知龍馬空港」の文字がなんだか誇らしそうに、よく映えている。
岡野は龍馬も好きだっただろうか。
歴史ものの小説や漫画が本棚に並んでいることは気づいていた。けれど、土佐藩に興味があったかはよくわからない。3年も暮らして、“幕末”について話したことがなかった。
それが異常であるのか普通であるのかを木綿子は知らない。
至らなかった自分について考えるあまり、どんな些細なことさえも「原因」か「原因の原因」ではなかったろうか、と感じられてくる。

しかし、こんなときにもお腹は減るもので、まずは腹ごしらえをしたいと思った。

「そうだ、カツオのたたきだ……」

岡野が食べたいと言ったカツオのたたきを食べることにする。「食べたよ」「おいしかったよ」と報告せねばならない。「行けばよかったなあ」という、いつもののんびりした調子の返事が聞きたいのだ。

どうせなら岡野が見たいと言った「桂浜」に近い方がいいかもしれない。
2泊の旅を、ひとまず今日のところは「桂浜」と「カツオのたたき」に使おうと決めた。場所を調べ、店を探し、行き順を考える。どれも木綿子にとってはずいぶん不得意なことであり、どれもここ数年間何も言わずに岡野がやってくれていたことでもあった。
小さな面倒を重ねて、海の方を目指す。

「もっと恩着せがましくしてくれればいいのに」

岡野への感謝と一緒に、木綿子はそんなことを思った。

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店の外壁には大きなカツオが貼り付けられていて、隣には「うまいぜよ!!」とあった。それならそうだろう、と店内に入る。
人気店とあって心配したけれど、幸いお昼時が少し過ぎたタイミングが良かったのか、2席の空きがあった。
席について、メニューを選ぶ。

「わたしもそれにする」

と今日は言えない。思えば「生きる」とは「選択」の繰り返しだった。いかに自分が近ごろ「選択」をサボり、岡野という堅実でおおよそ“間違わないであろう”人間に、その作業を委ね、寄り掛かり、楽をしてきたことか。
まだまだ外はこんなに明るいというのに、すでにひどく思い知らされ、木綿子は弱ってしまう。

「この…定食をひとつください」

“ひとつ”という響きを、やけにさみしく思った。ひとりで外食をすることぐらいいくらでもあるけれど、遠くへ旅に来て海の近くで口にする「ひとつ」は、いつもより余計に「ひとつ」だ。
岡野ももう昼食をとっただろうか。
木綿子には、“用事”と言い彼が出かけた場所に見当もつかなかった。
思えば、木綿子が友人と買い物に出かけているとき、お茶をしているとき、仕事で帰りを遅くしているとき……。岡野は同じ時間をどんなふうに過ごしていたのだろうか。
夕食のときには、聞いてもらうばかりであまり尋ねることをしていなかったかもしれない。「話したければ話すだろう」と思ったし、「話さないことは話したくないのだ」と考えていた。
けれどそれも、木綿子の勝手な憶測であったのかもしれない。

「はい、どうぞ」

伝票と一緒に、目の前に定食のお盆が届けられ、「わあ…」と一瞬胸が軽くなる。
カツオに真っ白なご飯、湯気のたつお味噌汁だ。小鉢にはしらすまで添えられている。

「いい…!!」

いただきます、と口には出さずにそっと唱えてカツオを口に運ぶ。
舌に程よい冷たさと塩気を感じて、急いで白いごはんを頬張った。
鼻に抜ける香りがなんとも、たまらず贅沢だ。次のひとつも口に運んで、思わず「んんん」と唸ってしまう。
これが高知のカツオなのか。もちもちと弾力があるのに、とろけそうだ。言わないけれど、「うまいぜよ」と本当はすこし言ってみたい。
久々に飲むお味噌汁は、あたたかくてやさしくて、なんだか泣きたくなった。そして、ここで気づく。

「しまった…」

写真を撮り忘れた。
岡野にこれを見せるのではなかったのか。
ひとまず、カツオと「うまいぜよ!!」の外壁を写真に収め、この味の思い出は大事に持ち帰り、自分の口で伝えることにした。
また一緒に来ればいい。次に訪れるときもこの店がいいだろう。
そのぐらい木綿子はとても満足だった。

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さらに移動し、海岸近くまでたどり着く。
桂浜の砂浜から見る海は、空の青を少し濃くしたようなパッと明るいブルーで、それはそれは驚くほど美しかった。
波が行ったりきたりするたびに、白い空気の泡がくるくると形を変えて、なんだかフリルのように見える。

「こんなスカートがあったらいいのに」

フリルの付いた海色のスカートを木綿子はそっと思い浮かべる。
岡野は桂浜を「見たい」と言ったけれど、それはこの海のことだったろうか。あるいはもしかすると「月」のことだったかもしれない、と考えてみる。桂浜は、どうやら「月」の名所らしいのだ。

「月が出るまで待ってみようか」

せっかくここまで来たのだから、と木綿子は月が昇るのを待ってみるのもいいと、しばらく時間をつぶすことにする。「坂本龍馬記念館」や石の階段を一歩一歩上り、鳥居の近くをぐるりと巡った。
すれ違う家族連れや恋人たちが楽しそうに話している。
「こんなに古いものが残っているんだねえ」だとか、
「ここを下りたら、すこし休憩したいね」だとか。
言葉や想いを互いに隣で交換できるというのは、どれほど素晴らしいことか。
もちろん、ひとり旅にはひとり旅の良さがきっとあるけれど、「ふたりであったはずのひとりの旅」で、木綿子はそんなことを考えられずにはいられなかった。

歩いてずいぶん喉が渇いたから、名物の「アイスクリン」を舐めて潤すことにする。懐かしい甘みで、口の中がいっぱいになった。

「ひとり?」

売ってくれたおじさんに尋ねられる。

「愛想を尽かされたんです」

頬張りながら半ば投げやりに目も合わせず答えると、

「そんなことも、あるある」

とおじさんはやさしく笑った。
そうか、世間ではよくある出来事なのかもしれない。なぜこれまで、そんな不安や想像が胸をかすめることさえなかったのだろうか。
木綿子は「毎日」が本当に毎日続く、と信じて疑わなかった。そして、そんな妄想を支えていたのは言う間でもなく、岡野への「信頼」に他ならないと改めて思い知る。
では自分はどうだろう。
彼にはたして信頼されていただろうか。「単純すぎる性格」故に、隠し事を疑われることはなかったろう。けれど、たとえばこの先ずっとそばにいることについて、どんなことも打ち明けられるかについて。
はたして岡野はどう考えていただろうか。

押し寄せる波をぼんやりと眺めながら、あれこれと巡らせていたら、徐々に辺りが薄暗くなってくる。沈みはじめた日が、もうすぐ海の下へと潜って顔を隠そうとしている。
もっと暗くなれば、月もようやくはっきりと見えてくるだろう。
仕事に追われ忙しなく過ぎる東京で、こんなにも時間の流れをただゆっくりと感じることはしばらく無かった。

「そういえば、今晩はどこに泊まるのだっけ……。」

そのことに気づいたのは、月が浮かび上がりはじめるのと同じぐらいだった。そして、岡野が送ってくれていたホテルの案内を見て驚くこととなる。

「四万十市……」

タクシーを使えば1時間半もかかる距離で、それは今朝飛行機に乗っていた時間と変わらなかった。

「やっぱり間違えた…」

と思ったけれど、ふとスマホを下ろして月に目をやると、決して間違いではなかったように思えた。
これを岡野にどう説明すればいいのだろうか、と木綿子は困ってしまう。
言葉を失うほどに、それは本当にただ見事だった。毎晩頭の上にあったはずの月が、今はまるで違ったものに見える。
大きな大きな不思議な星だ。こんなものにいつも見守られていたのか。ただただ、胸に迫るような静かな美しさに惚れ惚れとしてしまう。

明るいから見えるものばっかりではない。光を失い暗くなってみなければ、見えないものがいくつもいくつもあるように、そのとき木綿子は思った。

「しばらく眺めていてもいいか……」

めずらしく空腹を忘れて、そう考えていた。
そして、「さて」と腰を上げた頃には、辺りは一層真っ暗だった。
驚くほどのタクシー代も惜しくないと思えるほどの月を目に焼き付けて、木綿子は車の中でぐっすりと眠った。

黒い夜の道を、タクシーはとことこと木綿子を次の場所へと運んでいた。

<つづく>

※ 次回の最終回は、いつか公開予定です。

エッセイ執筆の糧になるような、活動に使わせていただきます◎