見出し画像

スパイダイバースィティ

Post Malone & Swae Leeの"Sunflower"が昨年10月にリリースされてから、この曲を聴きまくっていて、1日1回聴いてるとしてだいたい130回てことになるから、軽く200回は超えてるはず。
2分42秒の短い曲なので、聴き終えるたびに渇望感が残るんですよね。

同じように感じる人はいるようで、YouTubeには”Sunflower”10時間リピート(!)なんてのも上がってます。
あぁそうか。これがストリーミング時代に稼ぐ曲なんだな。ポスト・マローンは2018年Spotifyで世界で2番目に再生回数の多かったアーティストらしいし(1位はドレイク)。

毎日Sunflowerを聴いていると、必然的に妻も同じく(むしろ僕以上に)この曲が好きになってしまって、夫婦で映画『スパイダーマン:スパイダーバース』の公開を心待ちにしていました。
妻は、スパイダーマンが放射能グモに咬まれたピーター・パーカーという青年であるという基本的な情報すら知りませんが、とにかくIMAXの最高の音響でSunflowerを聴きたい!と。

そして、先週末IMAX3Dの先行上映に行ってまいりました。

結論。
残念ながら、2分42秒間”Sunflower"をIMAXの音でじっくり堪能することはできません…

しかし!
考えられうる限り最高の形で、この曲が本編の中に登場します。
分かる!分かるよマイルス!
ええよなぁ、この曲。歌うよなぁ。アガるよなぁ。でも歌詞いまいち覚えてへんよなぁ。

Sunflower MVより

何言ってんの?という方はぜひ映画を見てください。
毎日Sunflower脳内リピートしてる身からすると最高の演出からドラマが始まります。

映画の内容については、一般公開された今日から多くの人が多くのことを語るだろうし、あまり映画に詳しくない自分があれこれ語るのはよしますが、この映画が最高だったことは、予備知識ゼロで、観る前は「途中で寝たらごめん」とか言っていた妻が前のめりに「吹替版も観に行こう!」と言っていることが証明しています。

さて、ここからは極私的な観点からの話。
個人的には『スパイダーバース』にある問いの答えを求めて観に行った側面があったのでした。

数年前、カナダ人の友人と仮面ライダーの話をしていて、彼が言ったこと。

アメコミヒーローはリブートはしても何十年姿かたちを変えないのに、たった一年でデザインもコンセプトも完全にゼロから作り直し続けてる日本のヒーロー番組は完全にイかれてる。

言われてみると確かにそうで、ウルトラマンは別として仮面ライダーとかスーパー戦隊とかの日本の(というか東映の)特撮ヒーローって、フォーマットとしては何十年にも亘って引き継がれているけど、引き継がれているのはフォーマットだけで、ほとんどの場合前年に放映された作品とは世界観が切り離されている。

対してアメコミヒーローは、スーパーマンは絶対にクラーク・ケントだし、バットマンはいつの時代もブルース・ウェインだし、アイアンマンはトニー・スターク。(一時的な交代はあるが)

その中にあって『スパイダーバース』は、アメコミ原作のハリウッド作品の中で初めてそのような唯一無二の図式が成り立たないヒーローの存在を扱った作品になっているんじゃないかと想像したのでした。
日本の特撮のような、”スパイダーマン”というフォーマットだけを引き継いだ無数のバリエーションを描くものになってるんじゃないかと。

少し前まで僕の中で最有力の仮説としてあったのが、
アメリカ=トラウマドリブン/日本=ガジェットドリブン説

アメコミヒーローのコスチュームや能力は、「中の人」の個人的なトラウマと分かちがたく結びついていて、彼/彼女の意思や生い立ちによって選び取られているので、他の人に代替できない。だから、リブートされる度に時代設定とかはアップデートさせつつ、中の人のストーリーの基本的な骨組みは変わらない。
背景には、キャラクターの権利をコミック会社が持ちライターが再解釈を繰り返すアメコミ特有の事情と、大きい政府の権力の外側に自警団を求めるアメリカの伝統が。

対して、たまたま宇宙人に乗り移られたハヤタ隊員や、たまたま(でもないけど)改造人間にされた本郷猛をはじめ、日本の特撮ヒーローは後天的に授かった変身能力の使い途を戦いながら模索していくような(あるいは特に模索すらしない)ストーリーになっているので、変身するためのガジェットさえあれば変身する主体はいくらでも代替可能である。
背景に、中空構造の社会システ厶と東映とバンダイの蜜月関係。

などと、雑に考えていました。
少し関連した話を、韓国の新しいスーパーヒーロー(ヒロイン)ト・ボンスンに関連して前回のnoteの中でもチラっと書きました。

ところが、やはり雑に考えていただけあってこれは随分的外れだった…というのが、『スパイダーバース』を受けての感想です。

そう、アメコミヒーローの代表選手たるスパイダーマンも、誰にでも代替可能な存在だったのです。
放射能グモに咬まれるというそれだけで、誰でもスパイダーマンになれる!

ただ、本当にスパイダーマン(=ピーター・パーカー)的な存在になるためには、ある種のトラウマ的な体験が必要になることを映画は描きます。

今回の物語の主人公マイルス・モラレスがスパイダーマンとしての役割に目覚めていくきっかけは、あるひとつの出来事と断定はできないストーリーになっていますが、やはりここでも彼にとってひとつのトラウマとなるエピソードが用意されています。
ショッキングな出来事に直面し落ち込むマイルスに、スパイダーマン達が語りかけます。

「僕のときはベンおじさんだった」
「私のときは親友だった」
「私のときは…」

どのスパイダーマンも、辛い出来事を体験して自らの役割を自覚するに至ったことが端的に示されます。

『スパイダーバース』は、簡単に言うと並行宇宙に生きる各々の次元では唯一無二の存在なはずのスパイダーマンたちが、あることをきっかけにひとつの次元に集まってしまい、協力してその状況を突破する。そしてその中で新米スパイダーマンたる主人公の少年が成長していくという物語です。

似たような構成の映画を昨年観たのを思い出しました。
『仮面ライダー平成ジェネレーションズ FINAL ビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー』(長!)です。

これも、二つのユニバースがぶつかりそうになって地球ヤバイ!頑張れライダーたち!っていう映画でしたが、メインのスペクタクルの一方でフォーカスされていたのは、当時放映中だった仮面ライダービルド本編でライダーになったばかりだった仮面ライダークローズこと万丈龍我。
彼が、先輩ライダー達がそれぞれ背負っている「戦う理由」を目の当たりにしながらライダーとしての処し方を学んでいく…というのがサブテーマになっていました。

こんなふうに並べると、スパイダーマンと仮面ライダーの在り方にさしたる差はないように見えます。

結局、ヒーロードラマの中でトラウマが強調されるのは、単に物語装置として便利だからかもしれません。
あった方がよりドラマに起伏が生まれるし、観る側が主人公に感情移入しやすくなるし、ヒーロー然とした行動に説得感を与えるのは間違いないことです。

そんなふうに考えてみると、そもそもトラウマ自体持っていない感情移入の余地のない人物を主人公にした仮面ライダーアギトや、トラウマに駆動されて自らの思う正しさのために戦うとしても、その正しさは相対的なものでしかないことを見せつけた仮面ライダー龍騎や、変身能力獲得の特権性を否定した仮面ライダー555を、20年近く前に立て続けに作った平成仮面ライダーがいかに過激で先見的だったかが逆に際立って見えてきます。

じゃあ『スパイダーバース』の続編があるとして、より脱物語化した混沌とした世界を描いてほしいかと言えば、それはそれで見たい気もするし、もう少しマイルスの青春譚を見ていたい気もします。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。