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複数の下書きをむりやり合体させようとすると失敗してこういうことになる

ある雑感があって、それについて「なぜ?」と考える。
「なぜ?」が浮かぶのと同時に、それに対する大雑把な仮説を立てる。
その時点で、とりあえずのメモ代わりにnoteの下書きに書き出しの部分を入力しておく。

ところが、その後ゆっくり続きを書くタイミングを逸して過ごしてしまうと、日々の誰かとの会話や、本や、ラジオや、映像、様々なコンテンツに触れる内に、最初に立てた仮説を補完できそうな情報があらゆる方向から入ってきて、一方で仮説を覆す情報も溜まっていき、そもそも最初の問い自体がとても些末なものに思えてくるような場面に出くわし、その内に、それら情報ひとつひとつのソースがどこにあったかも忘れていき、一週間も経つ頃には手に負えなくなっているのと同時に自分の中でその話題がすっかりホットじゃなくなってる。

…みたいなことが、ここ3週間くらい続いています。

日記みたく、とりあえず気付いたことがあるたびに投稿するというふうにやればいいのでしょうが、どうもカッコつけちゃうタチなようで、これは論考として人目に晒すレベルか、みたいなことを考えてしまいます。
といって、今までだって大した内容を書いてる訳でもないんですけど。
そんな僕の投稿は、特にルールを決めた訳でもないんですが、振り返るとだいたい似たような構成になっていて…

① ある雑感があって
② その周辺についてちょっとだけ調べたことなどを記して
③ ①と類似性がある(と僕が思う)別の事柄を持ってきて
④ アナロジカルに推論を書こうとやっていく内に脱線し
⑤ 集中力と思考力の限界が来て投げ出される

どうせ最終的には集中力切れて尻切れトンボで終わるんやからもっとラフに書きゃあいいのに…と自分でも思いますが、一週間くらいのスパンで何かしらのテーマについて一人であーでもないこーでもないと思考をかき回す時間は、それはそれで日々の暮らしや仕事に活かされてる気もします。
最終的に人目に晒すまでに至らなかったとしても、noteという出口を意識することで、ただ趣味的に考える場合よりも思考のレベルが一段深くなる気がします。まぁちゃんとアウトプットできるに越したことはないけど。

ちなみに、ここ3週間の間で考えてたのはこんなテーマ

4月第一週:
目の前の複雑な状況を寓話化したい願望

この週は、ある仕事の中で、同じゴールに向かっているはずなのに価値観というか世界認識のズレから互いのアプローチが反発しあってしまう、最もプロジェクトの成功を望んでいる人が成功に向かうプロセスを止めてしまう、みたいな状況が起こって、自分自身結構シビアな立場に置かれていたにも関わらず、なんかこの状況めっちゃ面白い!と思ってしまい、何とか具体的な状況を明示せずにこれを寓話化できないものかと考えていました。
寓話化しようとすると、そういうの全然好みでもないし、ドラクエもFFもまともにやったことのない人間のくせにヒロイックファンタジー(剣と魔法の世界)的なストーリーばかり浮かんでしまって、自分の想像力の貧困さにうんざりしている内に、その週の終わりにはそもそもの発端だった目の前の状況が好転して、寓話化したい欲もすっかり消え失せました。
現実世界の複雑性をフィクションの物語として再構築できる人ってほんとすごいなって改めて思いました。

4月第二週:
「ものづくり」というマジックワードと愛国ポルノ

自分自身が、ある場面で年長者を説得しようとする時に「ものづくり」というキーワードを相手の自負心を慰撫するようなニュアンスで使っていることに気づき、ちょっと調べて「ものづくり」という言葉がメディアで頻繁に使われ一般に浸透したのが90年代半ばであることを知り、今のネトウヨとか愛国ポルノ的なテレビ番組とかにある「自信喪失の裏返しとして過剰に歴史的な裏付けに頼ろうとする」みたいな側面とか、江戸しぐさみたいに「日本人の精神性の美しさを謳うために歴史や言葉を捏造する」みたいな側面がこの言葉にはあるのでは?などと考えました。
が、実際自分の経験や知識で踏み込めるポイントがあまりなく、そこ止まり。
そもそも「ものづくり」という言葉自体はそんなに嫌いな訳ではないし、ただただこれをある種のマジックワードだと認識しながら場面に応じて使い分けている自分自身の意地の悪さに辟易とするのでした。

4月第三週:
AIはセンス・オブ・ワンダーを運んでくれるか?

SpotifyのDiscover Weeklyで流れてきた曲で、明らかに良い曲だし、好みの音だし、絶対もっと好きになっていいはずなのに最近サラっと聞き流してしまったりしてる。その原因は、音楽がランダムに流れてくることに慣れすぎて不感症になってきたことにあるんじゃないかとまず考え、いやそれもあるかもだけど、むしろAIが選曲者であることに原因があるのでは?と思い至りました。
これははっきりと、今読みかけのブライアン・クリスチャン著『機械より人間らしくなれるか?』という本の影響をもろに受けています。

まだ冒頭70ページほどを読んだだけですが、AI研究の思想的な側面をエッセイ調に書いた本で、イギリスで年に一度開催されるチューリングテストの競技大会のエピソードから話は始まります。
その競技大会というのが、審査員が目隠し状態で会話(文章のやり取り)をしている相手がボットか人間かを推察し、審査員が最も人間らしいと評価したAIに「最も人間らしいコンピュータ賞」が贈られるというもの。著者はそこにサクラ(ボットと比較審査される側の人間)として参加します。
会話する相手に人間らしさを感じさせる要素とは一体なんなのか?という命題に対して、こんな記述が出てきます。

僕はここでもう一度、「ただ自分らしくいればいい」という主催者のアドバイスへと、哲学者たちがこの自分らしくいるという概念に対してどのように悩み苦しんできたかと思いいたる。(中略)十九世紀ドイツの実存主義哲学者フリードリヒ・ニーチェは「自分らしくいる」ことで最も重要なのは「どのような自我であってもいいから、一つの自我でいること」であるという驚くべき考えを持っていた。
ニーチェは、人間を芸術作品になぞらえてこれを「自分の性格に様式を与えること」と表現している。多くの人は、芸術作品をいわゆる「全体的調和」、つまり各部が組み合わさって全体を構成するさまによって評価する。「最終的に作品が完成すると、一つの審美眼による制約が大小さまざまなすべてのものを支配して形作っていることが明らかになる」とニーチェは述べる。
ジェロン・ラニアーのようにコンピュータ文化に対して批判的な人々は、ウィキペディアなどの分権的プロジェクトに懐疑的であり、次のように主張する。
”「ザ・シムズ」、iPhoneやピクサーの映画をはじめとするデジタル文化の成功例はいずれも個人的表現である。(中略)その中心には必ず個人のビジョンが存在する。ウィル・ライトやスティーブ・ジョブズ、ブラッド・バードのような個人がビジョンを生み出し、給与をもらう人々のチームを指揮するのだ。”
ニーチェにとって重要なのは、まさにこの「中心に存在する個人のビジョン」であり、彼はさらに「その審美眼がよいか悪いかは、人が思っているほど重要ではない。単一の審美眼でありさえすれば!」とまで述べている。

上の話に即して自分の話に戻すと、Discover Weeklyに強い興味を持った最初の時期、僕はSpotifyの弱いAIに人格のようなものを期待していた…あるいはそんなものはないと分かっていながら、そこから偶発的に生まれるセンス・オブ・ワンダー(理解を超えた不思議)を期待していたんだと思います。ところが長く付き合っていくうちに、このプレイリストはビッグデータをとても巧みに再編集してパーソナライズした結果であって、「単一の審美眼を持った仮想の人格」などはそこにないことを実感してきた…ってところかなと。
ただ、Spotifyの自動プレイリストに限定した話でいくと、あくまでこれは選曲というコンテクストにAIが介入してるという話であって、そこで紹介されるひとつひとつの音楽はどれも紛れもなく「一つの自我」によって作られたものなので、面白いものはやっぱり面白い。
結局、良い音楽との出会いにちゃんと感動できるかどうかは、情報の奔流の中でいかに感覚を研ぎ澄まし続けられるかということに帰結して、結局振り出し(慣れによる不感症問題)に戻る。
てことで、今はもう少しDiscover Weeklyにセンス・オブ・ワンダーを期待して、今後も「今週のディスカバー」は断続的にでも続けていこうと思ってます。

もうここまで書いた時点で、最初に書こうと思っていた内容とはだいぶズレてしまってる訳ですが、途中で頓挫した話ももったいないから開陳しておこうという貧乏臭さがにじみ出て非常に脈略のない文章になったなと反省しております。
そして、例のごとく思考力の限界がやってきたのでここで終わります。

複数の下書きを無理やりくっつけたら、やっぱりろくなことにならなかったので、もうこういう記事は書かないようにもうちょっと思考のサイクルを早く回していきます。

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