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「森友学園」「ツタヤ図書館」のことなど。

(1)根本の不信

「森友学園」「加計学園」の問題がここまで大きくなったのは、単なる学校設立の経緯に対するトラブルではなく、根本的に、国家の税金の使い方に、国民の多くが不信と不満を持っているからだろう。国立競技場の改築から、築地から豊洲新市場への移転など、巨額の税金が、無意味な使われ方をしている状況に、絶望的になっている。

 日本の大半を占める中小企業は、税金と家賃を払うために通常の利益以上の利益をあげなければならず、死にものぐるいで仕事している。都心に住む大半の労働者は、税金と家賃と食費で大半が消える。敗戦の崩壊から懸命に働いて「豊かな社会」を築いたはずなのに、その実感がない。そのうえ、国は、まだ莫大な借金があると言う。ギリシアの崩壊を見ながら、まだ浪費を続ける政府にどうなっているのか、という思いは強い。余計なことをするなら、何もしなくてよいから、税金下げてくれ、という思いだ。

 敗戦から復興させた戦後の官僚は優秀だったと思う。僕は1950年に東京の新宿で生まれた。戦後まもなくであり、教育環境も、子どもに対する施設も不完全のままであった。明治神宮に明治記念館というのがあり、そこの前に池がある。僕が小学生だった頃、あの池が、子ども向けのプールに改装された。着替え場所は、明治記念館の中であった。それは恐らく、団塊世代の子どもたちが増えてきたのに、学校にはまだプールもなく、冷房装置も普及していなかった時代に、官僚たちが知恵を絞って、子どもたちのために、明治記念館の池を公営プールに改築してくれたのだと思う。官僚には予算がなかった分、知恵があった。

 70年代に「豊かな社会」が訪れてから、国家の予算の使い方がおかしくなった。日本の企業と労働者の生産向上のおかげで、税収は伸びたが、もはや官僚にとって、知恵を使って節約するよりも、与えられた予算をどう消化するかにエネルギーが向かってしまったのではないか。省庁間のライバル意識が強くなり、日本全体のことよりも、省益が優先され、他の省よりも多くの予算を確保して、使い切ることが官僚の優劣を決めるようになった。こうした、不都合な秩序が、現在、一斉に吹き出してきているのではないか。

 第一次安倍政権のテーマは、日本行政の構造的な問題を根本から見直す行政改革であったはずだ。それが第一次安倍政権が倒れ、新しい構造を作り出すはずだった民主党は、未熟なまま政権をとってしまったので、逆に官僚にいいように操られ、官僚組織を余計に強固に、したたかにしてしまった。国民の期待に応えられなかった民主党は、解党して、また一議員から始めるべきだったのに、政党助成金という悪魔の誘惑に負けて、今のありさまである。そして、復権した安倍政権は、行政改革どころが、官僚と一体となって、浪費に浪費を重ねているように見える。

 本来、国家の予算とは、国家100年の計を見て策定されるものである。明治維新で近代の道を歩み始めた日本は、国家予算で、電気・水道・ガス・道路・鉄道・河川などの基本インフラの整備を行った。しかし、今の国家予算の使いみちを見ていると、どこにも国家100年の計は見えずに、現実の補完と、投資ファンドのような現実的な投資に明け暮れているのではないか。近代日本が完成した今、脱近代に向けての100年の計を策定して、基本インフラ構築のために予算を投資すべきではないのか。

(2)ツタヤ図書館(CCC)問題

 安倍首相の地元である山口県周南市の新設されるツタヤ図書館(CCC)で152万円のダミー本35000冊が購入されるという問題も、根本は、税金の使い方の問題である。ツタヤのビジネスモデルは、国費を使って新設の図書館を建設させ、そこに図書館を設置して集客を行い、Tポイントカードの利用を促進したり、スタバなどの飲食店の回転率をあげて利益をあげるというものだろう。

 ツタヤの旧来の図書館業界からすれば掟破りのやり方に、多くの図書館人は怒り心頭であろう。しかし、旧来の図書館人側にまったく問題がないのか言えば、そんなことはない。ツタヤ図書館のような、スタイリッシュなブックカフェ図書館は、本来は、旧来の図書館人の方が提案して、推進すべきなのでなかったのか。より多くの人に集まってもらうアイデアを知恵振り絞ったのか。悪名高いツタヤ図書館の「ライフスタイル分類」についても、図書館司書が学んだ日本十進分類法を、根本的に変えようとする発想はなかったのか。出版をやっている者なら分かるが、自分の編集した書籍が、この分類法では、どこにも入らずに困ることがよくある。インターネットが登場して以後の図書館は、これまでのものとは根本的に変わるはずである。ここにも官僚組織の硬直と同じような、図書館人たちの官僚化と、既得権益・ノウハウの固執があるように思える。

「川口メディアセブン」「山中湖情報創造館」のような、新しい時代の図書館を模索するような動きがある。これらは、旧来の図書館業界が担ったものではなく、優秀なNPOが指定管理団体として運営している。地方の首長さんは、ツタヤ図書館に右向け右になるのではなく、もっと大きな視点で、先進的な活動をしている図書館を参考にすべきだ。とりあえず見栄えのよい箱を作れる業者よりも、一緒に地域に新しい情報拠点である図書館を育てようとする人たちと組むべきだ。

 僕は、ツタヤ図書館のやり方が正しいとは思わないし、ビジネスごり押しのやり方には普通に不快に思っている。しかし、かといって、既存の図書館業界が絶対的に正しいとも思わない。僕は、20数年前から図書館協会の若い人たちと、これからの図書館のあり方を議論してきた。20数年前からなので、もう若くはないが(笑)。図書館協会の総会で講演をやったこともある。聞こえてくるのは、図書館業界の権威主義、保守主義、官僚主義、新しい動きに臆病な体質である。ツタヤ図書館という異質な闖入者に、感情的に反発するだけではなく、これからの図書館のあり方を真剣に模索し、行動する人たちが、図書館の側から登場してくることを望む。

(3)これからの100年

 今年のはじめに、文科省から大学への天下り問題が露呈した。現在、大学への補助金は、国公立で1兆円、私学には3000億が使われている。巨額である。この予算は配分し、管理するだけで膨大なコストがかかるだろう。しかし、果たして、それで、理想的な大学が運営されているのだろうか。

 すべては、戦後社会を築くための制度や発想が、戦後は終わったのに、既得権益として残存されているということだろう。戦後の復興から国家建設するためには、人材が必要であり、いわばサラリーマン養成機関として、全国に駅弁大学(大宅壮一)が登場した。しかし、そのような量としての人材を育成する時代は終わった。

 100兆に近くなった国家予算の半分は、公務員及びみなし公務員の給料だろう。残りの巨額が、民間に流れてく。一般市場が縮小していく中で、これだけの年間予算は、日本最大の市場であり、大手の総研や人材会社や広告代理店が一斉に、この予算をとりに来ている。ツタヤもその流れにのったのだろう。しかし、その流れでよいのか。

 もういちど、これからの国家100年の計をたてて、国家予算が適正に配分されることを望む。まずは、戦後意識の亡霊たちを、表の世界からも心の内側からも排除しなければならないだろう。

▼「森友学園」「加計学園」「図書館」などの話は、以下、ブックレットに収録してあります。

note-booklet_0002 森友学園問題(有料500円)

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