追悼・小林秀樹

追悼・小林秀樹

 秀樹が癌で亡くなった。本日、家族だけの葬儀が行われた。一年前に余命3ヶ月という非情な癌告知を受け、治療法もないほど身体を侵されていたが、持ち前のエネルギーと明るさで頑張っていた。

 私には実の弟がいるが年の差が13歳あって、あまり兄弟としての時間を共有したことがない。秀樹は、私のかみさんの弟で、私とは4歳の差なので、僕のことを「お兄さん」と呼んでくれた。最初は戸惑ったが、弟とはこういうものなのかと喜んだ。最近では「幸夫さん」と呼んでくれたが、彼が学生時代からずっと呼んでくれた「お兄さん」の声が忘れられない。

筑波の葬儀会場

 秀樹は直江津で生まれ、高田高校から東京大学工学部建築家に進学した。東大に入学した頃の、小林の両親の嬉しそうな笑顔は覚えている。東京に出てきて、僕は当時、渋谷陽一とロッキング・オンの雑誌を作っていたが、渋谷の知り合いで品川区の戸越で一軒家に住んでいたが欧州に何年か家族で移住するので、その留守の家を誰か借りてくれる人はいないかと相談され、秀樹を紹介した。家具調度も残してありピアノまで置いてあった。秀樹は、そこで学習塾を開き、大学に通っていた。

 秀樹は、明るいスポーツマンであり東大のテニス部でキャプテンになった。彼と会うのは、盆暮れとかに直江津に帰省している時が多かったが、当時の東大建築の学生は、デザイン志向の建築家を目指す人が多かったのだと思うが、彼は、「コミュニティ論」を目指した。下町の団地にカウンターを持って人の流れを数値化したり、人々の生活の営みをウォッチするフィールドワークばかりしていた。その成果は、院生の時に出した「集住のなわばり学」(彰国社)という本に描かれている。動植物の「なわばり」概念を研究し、人間社会の「なわばり」意識について書かれたものだ。

 彼が話してくれたのは、例えば下町の長屋の横丁で各家の人が路上に植木鉢で花を栽培している。あれは、余所者が通行しにくくして、自分たちの「なわばり」を確保しているというようなことだった。「なわばり」という排他的な言葉が、彼にとっては「コミュニティ」という豊かな関係性を育てると思っていたのだろう。

 彼は、一面的な価値観に偏ることを由としなかったのだと思う。ある時、直江津の寒い冬の日だったと思う。こたつに入って話していたのを思い出すのだが、「お兄さん、家って、所有するか賃貸で借りるか、それしかないっておかしいと思うんですよ。買うのでも、借りるのでもない、第三の道があると思うんです」と言った。

 彼は、その考え方のこだわりを生涯持ち続けたのだと思う。実際に、彼は大学を出て、建設省の建築研究所に入り、「所有でも賃貸でもない、第三の道」を実現してしまった。それが通称「スケルトン定借(つくば方式)」と言われている、定期借地権住宅の開発である。秀樹は、その方式を開発・実践した功績で、2007年に建築学会賞を受賞している。

 秀樹は、その後、千葉大学工学部で教員になり、「ベストティチャー賞」を受賞するほど学生たちにも慕われていたようだ。

 彼は、単なる学究の徒ではなく、実践的な活動をさまざまに追求した。定借の考え方を応用して、衰退する地方都市の駅前やシャッター通りの再生を計画したり、増大する空き家を地域の高齢者の憩いの場に再生しようとしたり、空き家を地域行政が借り受けて、貧困層やシングルマザーの公営住宅にしようという法律の策定にかかわったりと、社会実践的な活動家であった。

 彼の大学とは別の活動拠点は、ahlaもうひとつの住まい方推進協議会というNPO組織で、秀樹は代表理事として、「シエアハウス」とか「コーポラティブハウス」などの新しい住まい方の潮流について、積極的に研究し、実践的に推進していた。彼は常に「いまあるものの延長」ではない、第三の道を探し続けていたのだと思う。

もうひとつの住まい方推進協議会

 私は、1970年代に「ロッキング・オン」というロックの投稿雑誌を作り、そのあと「ポンプ」という全面投稿雑誌を作り、一貫して「参加型メディア」「参加型社会」を追求してきた。僕の考えや行動は、秀樹にもよく伝わっていたと思う。

 最後に会ったのは、2019年の8月19日、青山のビットメディアだった。僕が考えている、新しい教育シェアハウスの考えをahlaで作っている事例集に掲載したいとのことだった。いつものように笑顔があふれる若々しい姿で、こんな秀樹が、癌の宣告を得たのは信じられない思いだ。

 秀樹の社会的功績は、専門家たちが評価してくれるだろう。

 私が彼の仕事で、もうひとつ気になっているのは、学生時代、セキスイハイムだと思うが、研究所の嘱託になって開発した「スタディスタディ」というプレハブ建築の家だ。それは、家の中央に「スタディスタディ」という空間があって、そこで、子どもは勉強し、母親は家事をしたり趣味を楽しんだりする。父親も読書したり仕事をしたりする。その空間は、家族全体から見渡せるように出来ている。そして、それぞれの自室は、ただ寝るだけの個室である。

 秀樹が作ったこの家のモデルは、彼が理想とした家族のあり方なのだと思う。「一人の生活から建築・都市を考える」は、彼の生涯のスローガンであり、個人意識から社会や歴史という全体性につながる、見事な生き方だった。

 癌治療の時、姉であるうちのかみさんは、筑波に行ったり、Zoomで話をしたりしていた。秀樹は「一応、人生でやるべきことをやったから」みたいなことを言っていた。秀樹の教え子や、影響を受けた人たちが、秀樹の人生を継承してくれて、それは、はじめて言ってよい言葉だと思う。

 私自身、彼ともっと議論したり企画を交換したりするべきだったと後悔もある。引き続き、生き延びた者は、それぞれの現場で頑張るしかない。

 さようなら、弟よ。

追伸

 秀樹の大学の退官講義である。彼の人生がどれだけ充実していたか分かるので、長いけど、見て欲しい。

小林秀樹先生の挨拶と最終講義


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