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追悼・近藤純夫さん


 子ども調査研究所の近藤純夫さんが亡くなった。命日は2019年6月6日。1943年3月20日生まれなので、享年76歳。痛みもなく、静かに自宅のベッドで亡くなられた。

 昨年、末期の肝臓がんだと告げられた。糖尿や痛風や、いろんな病気を抱えていて、病院にもよく行っていたのに、肝臓ガン気が付かず、発見された時はもうどうしようもないほど大きくなっていたらしい。

 近藤さん、通称「こんちゃん」とは、1970年、僕が20歳、近藤さんが27歳の時に子ども調査研究所で、出会った。僕が読書人という書評新聞の投稿欄に、まんが論を投稿したのがきっかけで、子ども調査研究所の高山英男さんから連絡をもらい、神宮前の事務所を訪問した時が最初だ。

 当時、子ども調査研究所は、高山さん、斉藤次郎さん、富岡さん、玉造さんら、少数のスタッフで、子どもや若者対象のマーケティング調査を行っていた。エレベーターのないビルの4階で、扉のところには「自動扉」と書いてあった。「自分で動かす扉」という意味だ。

 斉藤次郎さんが編集長で「まんがコミュニケーション」というマンガの書評新聞を創刊するところで、僕は第一号から原稿を書いたり、テープ起こしをしたりしていた。その新聞は数号で廃刊になったが、大学に近いこともあり、時間があれば、事務所に遊びに行っていた。時々、グループインタビューやアンケート回収のアルバイトを頼まれたりもした。

 近藤さんは東大の大学院生だった頃から中学校の教員をしたりしていたが、いつのまにか子ども調査研究所の主任研究員になっていたようだ。とにかく地頭の能力がすごくて、博学ぶりはすごかった。にもかかわらず、子どもたちに接する時は、子どもそのもので、ガキ大将のように、子どもたちの中に入れる人だった。

 何度か、近藤さんのグループ・インタビューの手伝いをしたことがある。70年代当時は、小中学校の先生と一般企業である子ども調査研究所と協力関係にあって、小学校の教室でグループ・インタビューを実施していた。80年代になると、学校の管理が厳しくなり、企業の人間が校舎に立ち入ることができなくなった。それまでは、近藤さんのような人間が学校の先生たちとよく議論をしたり、情報交換をしたりしていたのだ。

 山の手の小学校と下町の小学校に連続して訪問したことがある。当時は、山の手の学校は、上品というか、なかなか本音を話さない子どもが多く、下町は賑やかで勝手にいろんなことを話し出す子ばかりで大変だったが、近藤さんは、それぞれの子どもたちの輪の中に入って、タメ語で会話を盛り上げていた。

  子ども調査研究所は、現代っ子の新市場を企業と一緒に創ってきた。リカちゃん人形も、人生ゲームも、チョロキューも、すべて近藤さんたちが登場にかかわっている。

 ちなみに、その頃、近藤さんの助手みたいなことをしていた慶応の学生は、現在はスタジオジブリの鈴木敏夫さんだった。なので、僕ともその頃から交流があり、鈴木さんが徳間でアニメージュの編集長になった時も遊びに行ったことがある。

 また、僕と同世代だった大阪の村上知彦も、高山さんが見つけて、東京に来ると子ども調査研究所に寄ったので、僕とも生涯の友人となった。

 近藤さんは、僕らの兄貴みたい存在で、仕事が終わると、よくお酒を飲みに行った。高山さんや次郎さんは、あまり飲まないので、近藤さんは出入りする若者たちを見つけると、すぐに飲みに誘った。

 近藤さんは、戦争中に困窮の中で子ども時代を過ごした。子ども時代、いつも芋ばかり食べていたので、さつまいもは大嫌いだった。子ども時代の怨念からか、楽しいもの、便利なものに貪欲であった。贅沢ということではなくて、欲しいものが手にはいる社会を楽しまなければもったいない、という感じでだった。ある時「僕は、暖房を切る時はクーラーをつける時」と言っていたのには驚いた。

 近藤さんは、42歳の時にアフリカのケニアにはじめて海外旅行に行き、あっとい間にスワヒリ語をマスターしてしまった。ケニアで現地の人にスワヒリ語で語りかけると、みんな笑顔になって喜んでくれるので、それが楽しくて、どんどんマスターしていった。ケニア人の友だちもたくさん出来て、都内にあるケニア人の女性がやっていたケニアバーの常連でもあった。

 英語もはじめてのアメリカに単身で出向いて、それもニューヨークのかなりやばい下町の方の民宿みたいなところを回って、数週間で英語を完全にマスターしてしまった。近藤さんに言わせると、言語には構造があって、それが分かればあとは現地の人と会話をしていけば使えるようになる、と。

 亡くなる1年前まで、近藤さんは酒場に出入りしていた。それもかなり遅くに飲み始めて、早朝まで飲む。近藤さんは若い時から、寝るのは朝の4時で起きるのは午前10時という生活だった。若い時は、深夜まで調査の分析や報告書作成の仕事をして夜型になったのだが、生涯、そういうライフスタイルだった。

 近藤さんは、教育大駒場から東大に進んだエリートで、教駒時代の同窓生は、みんな超エリートで、老後は、よくその仲間と集まって、毎回メンバーが戦後史を語るという会をやっていた。ただ、普通の年寄りの同窓会は夕方の4時に開始して、7時には終わるというパターンが多い。年寄りは9時くらいになると寝てしまう人が多いからだ。近藤さんだけ、取り残されて、9時すぎから、一人で、酒場に出向いていた。

 近藤さんは、若い人が好きで、僕が子ども調査研究所に連れていったロッキングオンやポンプの読者たちとも仲良くなって、いつも酒飲みに連れていった。僕が飲めなくなって付き合えなくなったが、最近では、デメ研の吉池拓磨が、家も近いこともあり、よく一緒に飲んでいた。ふたりとも、野球好きという共通のテーマがあり、楽しそうだった。

 ああ、近藤さんのことを書き始めたら終わらない。

 1970年から2000年まで、僕は、特に用もなく神宮前の子ども調査研究所に顔を出した。自分のやってることや、仲間たちの話を、とりとめもなく話していた。近藤さんは、いつもそこに、ドラえもんのようにいた。マーケティングのイロハを教えてくれたのも近藤さんだ。僕は、子ども調査研究所のような、用もなく、いろんな人がふいに訪れたくなるような事務所を作りたいと思っていた。

 近藤さんが、もういない。あの時代ももう成立していない。電通の会議室で、現在の子どもたちについて、楽しくて仕方ないというように語っていた近藤さんの笑顔も、もうない。でも、近藤さんから教えられたことは「今を楽しむことだけ」ということだったと思う。僕も、もう少し楽しみながら、またいつか、神宮前の事務所へ、息をきらせながら階段を登っていくから、そこに近藤さん、いつもの笑顔でいてくださいね。さようなら。合掌。

▼戦後子ども文化史(2) 子ども文化とサブカルチャー/森永エンゼル財団


▼以下は、近藤さんが教駒の同級生たちの会合に最後に参加した時の、講演レジュメです。


<人生76年の総括>
…僕の人生は、すべて「あそび」だった。…

●僕の過ごした76年間は、かなり楽しかった。将来の夢を追いかけるでもなく、毎日を楽しく「あそぶ」毎日だった。そして“死”を迎える今も…

・過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。その人とはその人の過去のことである。その過去のエキス化が情緒である。だから情緒の総和がその人である。(岡 潔)

Ⅰ 「あそびとは」? 「勉強とは」?

 ○楽しくて、夢中になること(僕の定義)

 ・ヨハン・ホイジンガン「日常生活の枠にあると知りながら「あそぶ」ひとを全面的に捕らえうる自由な活動。いかなる物質的な利害も、いかなる効用ももたず、限定された時空の中で完了し、自由に同意されたルールにしたがって進行それ自体の内に自由をもつ。緊張と喜びの感情、日常生活と違うという意識を伴う自発的な行動である。(「ホモルーデンス」1958年より)

 ・オリジナル日本語のあそび あそび=自由で余裕があること。「朝(あ)臣(そん)」「(ハンドルの)あそび」
 ・「游」=水の上をたゆたう → 「遊」=たゆたいながら進む
 ・僕の遊び、ホイジンガの定義に加えて「仕事・労働」「勉強」「コミュニケーション行為」なども含むべきである。
 ・江戸時代の経理の仕事をしていた関孝和は暇なときの「あそび」として数学で数々の業績を残した。周囲に関心を持つ人はほとんどいなかった。そんなある日、彼は積分の方法を見いだした。「やったぁ!」と叫んでその晩は飲み明かしたそうである。まさに「あそび」の人ある。
 ・「あそび」の終りに思うこと
「あぁ楽しかった」「またやろう」「もっとやりたかった」「やめるの残念」「でも、疲れた。眠くなった。残念」「ずっとこうしていいたかった」
「今度は何をしようかな」
思わないこと(×)
「役にたった」「自慢できる」「もっと上を目指そう」etc


 ○「学ぶ」とは?「教える」こととは?

 ・「面白そうだな」と思って、興味をもち自分の世界を広げること。教えてもらうことではない。」{相手の興味に合わせて、興味を充実させる} by近藤
   →“そう気づいた時、教育の世界から身をひいた。”
 ・「学びとは、始めから自分の手元にあるものをつかみ取ることである。同様に教えることもまた、相手が始めからもっているものを自分自身でつかみ取るように導くことである。」     
(近代科学、形而上学、数学、マルティン・ハイデッガー 1962年)
 ・公教育で子どもが学ぶのは、正規のカリキュラムではなく、正規ではない「潜在機能 latent function」によるものである。(R.Marton)
 ・子どもたちは、先生の言うことではなく先生の禁止していることに興味を持っている
→ サブカルチャーの誕生

Ⅱ 成長のなかでの「あそび」

 1.0歳児の感覚 = 口唇期
  ・無条件反射のみの感覚
    すべてが、快と不快 → 快で笑い、不快で泣く
2.肛門期の感覚 = 第一次反抗期 = 幼児期
 ・不快感の克服 → 不快感の克服。自らの“快”を求めて
 ・ひとり、ひとりの生活環境の中で独自の興味の世界、独自の関心の世界を作り続ける。
3.ギャングエイジ = 児童期・小学生時代
 ・親、大人より友達の影響が重要
4.第二次反抗期 = 青年期・中高生時代
 ・カウンターカルチャーの作り手・担い手

Ⅲ 僕の「あそび」感覚の形成

 ・戦争直後の貧困生活
 ・親・いとこなど周囲の独特な大人たち
 ・読書、外あそび、「勉強」、プロ野球観戦
 ・教駒での生活、いたずら、放課後の楽しみ
 ・ロックとの出会い、反体制運動との関わり
 ・「こども」との出会い
 ・大学生活
 ・教育学部に進学・大学院博士課程へ  中学の講師3年間
 ・全共闘運動の衝撃 → 「あそび」感覚の確信
 ・大学退学 → 子ども調査研究所に所属

Ⅳ TV・新聞・雑誌のレギュラー 30代

 ・遊びの感覚を受け容れない世界
 ・子どもから学ぶ=インタビューの発見 → 以後、イ ンタビュアーとして生きる
 ・子ども商品の開発

Ⅴ 異文化との接触 40歳代から70歳代

 ・42歳で初めての海外。それも憧れのケニアへ。それ以降、ケニアには23回。
 ・結婚式もケニアで
 ・45歳で初めてアメリカに。ホテルに泊まらず、40日間民泊。以後、アメリカにも10回。
 ・「ケニアは一瞬、瞬きをしている間に2000年たった」と言われても信じられる世界。(A.ヘミングウェイ)
 ・「飼っている牛をライオンから守るためだけに槍1本持っているマサイ族を野蛮と言い、毎日爆弾を落としている白人たち」(マサイの長老の言葉)
 ・「アフリカ人は食中毒では死なない。死ぬのは飢えと戦争だけだ」(B.B.モンフラン)
 ・「自然保護」を言っているのは、自然を破壊してきた白人たちだ。(Peter.オルワ)

Ⅵ そして今 …まもなく“死”を迎えるに当たって…

 ・「俺の人生、結構楽しかった」と言うのが本音
 ・目標を持たない「あそび」の生活だったから、ことさら「やり残したことはないし、目標・夢は始めからなかった。」
 ・「死」は人生と同じく、自然の神秘である。「自然に一致して生きる。」を第一に考え、「今ここを生きるが重要。」未来を思い悩み、過去を悔いることはない、、(16代ローマ皇帝 マルクス・アウレリウス「自省録」より)

皆様、これまで本当にありがとう!!


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