見出し画像

ニュース0124●トークライブというメディア


(1)80年代の講演会

 昨年から未来フェスを含めて、各地でスピーチをすることが多くなった。
もともと僕は文章の人間なので、20代30代とただひたすら原稿を書いてきた。文章を書くことが考えることであり、文章を書くことで新しい発見をし、文章を書くことで多くの人と出会い、関係を築いてきた。

 最初の講演というか、トークライブは、覚えている。それはロッキングオン時代の1978年ごろ、渋谷のクロコダイルでやったものだ。その頃は、いくらでも、どんなテーマでも原稿を書けるようになっていたので、その調子で話せばよいのだろうと思って、臨んだら、悲惨なことになった。2時間くらいの予定だったが、10分も話したら、もうネタがつきてしまい、頭が真っ白になり、おたおたの状態になってしまった。トークは文章書くのと全く違うもので、時間の上でパフォーマンスするものであることを知った。

 80年になって最初の単行本を出すと、今まで知らない世界の人たちから、講演の依頼が来るようになった。マーケティグの仕事や、日経新聞社や日経BP社で書籍を出すようになると企業や業界団体からの依頼も増えた。企業向けのセミナー屋さんからの依頼も増えて、新しい書籍を出すたびに、「今回の本の内容を講演してください」というように毎回誘われたりもした。

 電通や博報堂などの代理店経由で、見ず知らずの業界や団体からの依頼も増えた。佐賀銀行の支店長研修を仕切ってくれと言われて、数日間の連続講座を行ったり、日産自動車の新車発売のためのディーラー研修会もやった。電話で「ニホンホウソウキョウカイですがホウソウの未来についてご講演をお願いしたい」と来たので、てっきり「日本放送協会」かと思ったら「日本包装協会」で、パッケージの業界団体だった。銀座の王子製紙の向かいに「紙パルプ会館」というものがあって、そこで「包装」はやがてどうなるか、というテーマで講演やったのである。全日本漬物共同組合というところで「漬物の未来」について語ったこともある。京都の呉服屋組合で「着物の未来」について語ったこともある。和服来た京都の呉服屋の旦那衆たちが観客で、終わったあとに先斗町でごちそうになった。

 代理店には、講師候補の名簿があって、自動車関係ならあの人、ファッションならあの人と、芸能プロダクションのようなブッキングシステムがある。僕の場合は、「誰に頼んでよいのか分からないもの」というカテゴリーだったのではないか(笑)

 おかげで、さまざまな業界の人たちと知り合い、講演がきっかけでリアルな仕事に結びついたことも少なくない。関係が出来ると、外側からしか分からない業界内部の現実や問題点が見えてきて、ものすごい人生勉強になった。僕が今でも、一般の人よりさまざまな事象について語るべきものを持っているとしたら、本やインターネットで仕入れた情報ではない、さまざまな世界のリアルに触れてきたからだと思う。

 2000年になって、電通はマーケティング局を廃止した。80年代、90年代は、日本のマーケティング業界の黄金時代だと思う。その時代の中で僕はさまざまな企業と関わり、優れた人たちと情報交換を出来た。そういう流れが、21世紀になって一気になくなった。新しい商品やサービスを開発するよりも、集中と選択で、今やっている事業をより効率的に利益を上げるソリューション・マーケティングに変更したのである。アメリカのコンサルティング会社の影響だと思う。

 90年の末に、博報堂は、社内に「21世紀委員会」というのを作った。これは、博報堂の役員がひとりずつ、自分のセクションの中から有望な若い人材を選び、そこで集まった人だけでチームを編成し予算をつけて、それぞれの業務を外し、21世紀の博報堂をデザインすることだけに1年間、集中させるというプロジェクトである。営業担当役員は、営業部員から、クリエイティブ担当の役員はクリエイティブから、経理担当の役員は経理部から、その役員がもっとも期待する人材が集められたのである。僕もその委員会の勉強会に講師で呼ばれた。21世紀委員会の方式は、当時の発想としては素晴らしいものだったと思う。集まった人たちも素晴らしい人達で、その後、退社した人もいるけど役員になった人たちもいる。この方式の素晴らしいことは、自社の優秀な人材が一年間、クラスメートになるということである。一緒に学びながら、帰りにみんなで一杯やる関係になる。それは、その後の会社運営に大きな力になる「同窓会」になるだろうと思った。僕は、「21世紀委員会」の発想を他社に営業すればよい、それが世紀末ビジネスとして日本の企業に必要なことだ、と訴えたが、どこもやらなかったな(笑)

(2)講演会は音楽ライブ

 さて、僕は、1978年の最初のトークライブで大恥をかいて、しばらく、人前で話すのが嫌になった。しかし、80年になってから、そういう機会も増えて、話さなければならない場面が増えてきた。

 最初は、話す内容をシナリオにして、そのままやったのだが、なんだか、「話す機械」みたいな意識になって、少しも面白くない。しかし、ぶっつけ本番だと頭が真っ白になる。
困っていたが、ある時、ひらめいた。「そうか、これは講演ではなく、ロックのライブだと思えばよいのだ」と。

ここから先は

1,941字

¥ 100

橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4