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社会実装ハウス論(1)教育とビジネス


1.教育とビジネス

 20世紀は製造とサービスが社会の大きなテーマであったと思う。さまざまな商品が生まれサービス業が発展した。その推進エネルギーになったのがビジネスである。何かを作れば売上が立ち、何かを売ればマージンが入った。経常利益が、いわば学力テストの成績のように映り、人々はガリ勉をするように働いた。成績のよい人間は、100点満点のテストなのに、1億点とか、1兆点とかといった成績表を自慢する。それに何の意味があるの?  死んでしまえば0点に戻る試験で。自らの人生や社会を豊かにするための勉強なのに、点数獲得が目的になってしまっては、肝心の自分自身が消えてしまう。

 確かに、競争の原理は、ライバルを意識して自らを律し、切磋琢磨して戦う組織を作っていく。そのことによって豊かな社会が実現出来た。しかし、あらゆる領域でビジネスの原理が当たり前になることによって、失われた仕事がある。

 僕は、それが「教育」と「医療」だと思っている。教育と医療はビジネスの原理にはなじまない。現在、教育はサービス業だ、と思っている人が大半だろう。サービス業である限り、学生は顧客であり、顧客のニーズに応えるのが大学の役割である。本当にそうか。

 教育というものは、本来、学びたい人が「教えていただく」という態度で師の元に集まったのではないのか。吉田松陰に教えを乞う塾生たちが集まって松下村塾が運営されていたのではないのか。医療もまた「治してください!」と懇願して医師の元に駆け込んだのではないのか。

 現在、大学では、先生も生徒の成績を採点するが、同時に、生徒も先生の評価を採点する。生徒の評価が悪ければ、おそらく首になる。ビジネスとして考えたならば当然の方策であろう。しかし、何か納得できない感情がある。教育がサービス業であるとしたら、教える側の意志よりも、学ぶ側のニーズが重要になる。顧客としての学生の快適性を重要視して、キャンパスの施設や設備が充実する。都内の大学の教室は高層化していく。そのコストは、授業料に転化され、僕らの学生の頃と比べ物にならないほどの高額の授業料になった。教育がサービス業である限り、その負担は消費者である学生が負担することになるのだ。

 そして、教育がサービス業であると学校側も認識しているから、不合理な要求をしてくるモンスターペアレンツが登場して来ても、強く拒否できなくなる。

 都内を歩いていて嘆く。これから少子化になるというのに、大学が高層化して教室を増やしてどうするつもりだ。タワーマンションの愚と、おなじ道を大学は走っているように思う。教育をビジネスとして捉えているから、学生(顧客)ニーズに合わせて、快適なキャンパスライフを演出する競争に走っているのだろう。

 しかし、そこに本当の意味では「教育」があるのか。

 戦後社会は、駅弁大学という大宅壮一の言葉が表しているように、日本各地に新制大学が乱立した。それは、敗戦によって焦土となった日本を復興するために、産業の主体となる企業に人材を送り込むための政策であったのだろう。企業人材、すなわちサラリーマン養成機関の役割を担った。学生が大学を選ぶのは、自らの内面のテーマを明らかにするためではなく、大学卒業資格を得るための社会人パスポートを求めるものが大半だったのだろう。

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