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正しさを求めるか、面白さを求めるか。トランプ、EU離脱、舛添都知事。●情報小料理屋 2016/06/15

 15年ほど前、日経新聞社を退社して、ロンドンから帰ってきた阿部重夫さんと飲んでいた。今は「FACT」で無双のジャーナリズムを展開している阿部さんだが、当時は浪人中で、時間的にも余裕があったみたいで、ときどき、会っていた。その時に、僕が、阿部さんに聞いた。「ネットの若い連中って、どうして右傾化するんでしょうかね」と。すると阿部さんは、思いもかけない返事をくれた。「それはアメリカのネット状況でも同じだ。右翼の方が面白いからだろう。」と。

「右翼の方が面白い」これは新しい発見であった。左翼は「正しさ」を求め、右翼は「面白さ」を求めるのか。

 阿部さんと僕はほぼ同世代だが、僕らの若い頃は「若い時に左翼にならなかったバカ、年取ってまだ左翼やってるバカ」という言葉があった。若い時は、自分に何の社会的経験もないから、そういう目で現実の社会を見ると矛盾だらけで、正義感のある奴は左翼になった。右翼というのは、現実の社会を肯定し保護するためのものに見えた。しかし、社会に出て現実社会に生きれば、ただ批判しているだけでは意味がなく、具体的な社会建設に加わるようになる。それをまた次の若い世代が否定するという、世代の新陳代謝があった。

 しかし、戦後社会が終焉し、アメリカとソビエトの冷戦もアメリカの勝利に終わった時、戦後社会の中で作られた右翼と左翼の闘いも終わり、それぞれの権利だけが固定化されたのではないか。世代的新陳代謝が起こらなくなり、労働貴族や、利権学者たちの権利がそのまま残ってしまった。戦後社会の中で築かれた左翼の利権に対して、若い正義感がネトウヨに走ったのかも知れない。ネトウヨは保守としての右翼というよりも、反左翼権力ということではないか。

 近代社会というのは、もともと少数のインテリと、多数の大衆との二重構造で出来ているのだと思う。日本でいえば、東大卒の官僚組織と、一般大衆である。政治も、左翼と右翼という世界冷戦に対応した対立構造とは別に、インテリたちの国際派(清和会、宏池会)と地域に根ざした大衆を基盤とした民族派(越山会)との対立があった。左翼の戦線にも、国際派であった講座派と、民族派であった労農派の対立があったと思う。それは企業にしても、国際派の日産、ソニーなどと、民族派のトヨタ、松下などという捉え方も出来たかもしれない。

 国際派は少数であるが、世界の情勢を情報と知識で握っており、無知な大衆をリードするというインテリ指導者の矜持が明治以来のインテリ指導層にはあった。そして、国際派は左翼ではないが、現状打破の改革派であり、民族派は現状肯定の保守派である。田中角栄は、ひろく大衆の気持ちを理解し、圧倒的な支持を集め、日本の政権を支配していた。東大卒のインテリとは違う、大衆の中から生まれた指導者として権力を握ったのである。人々は、足軽から天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉を模して「今太閤」と田中角栄を呼んだ。

 しかし、やがて情報流通革命が起き、インテリが独占してた知識が、知識人を介在しなくても大衆のところに届くようになってきた。戦後民主主義の教えが広がり、個人が自分の意識を持ちはじめ、大衆という概念は変質してきた。インターネットは、そうした時代の流れの中に登場してきた。左翼と右翼、国際派と民族派という、これまでの対立軸がからみあったまま、指導者のいない世界が広がっていった。これは、「指導者のいない世界」という、新しい時代のはじまりなのだと思う。

 現実社会には指導者がいる。選挙制度があり、当選した者が権力を握る。インターネット以後の社会では、これまでの方法と根本が変わってくるだろう。大衆には理解できないけど、何かものすごく頭の良い人だから政治を任せて大丈夫だろうという、超インテリの指導者はもはや存在せず、だまってオレについてこいという大衆のヒーローのような政治家も成立しえないだろう。インターネットという、言葉を持った大衆たちのネットワークが存在しているからである。しかし、現実は、そう簡単には進まない。新しいものを追求すると、必ず揺れ返しが起こり、いつか見た風景がデジャブのように現れる。

 アメリカの大統領選を見ていると、僕は、むしろ昔の日本政治の状況を思い浮かべてしまう。トランプというのは、田中角栄なのではないかと思う。クリントンは福田赳夫だ。クリントンの方がインテリであり、弁護士であり、実務家であるから、国を安全に経営していくだろう。しかし、大衆というのは、なんとなくトランプの馬鹿らしさが好きで、愛してしまうのかも知れない。そうなると、サンダース上院議員は浅沼稲次郎か村山富市か。石原慎太郎がこの時期に田中角栄の本を書くというのは、ある意味、凄いと思った。

 日本は田中角栄の民族派が崩壊して以来、国際派と組んだインテリ官僚たちの支配権力が強まったが、それも永遠に続くとは思えない。インテリたちが批判する「正しさよりも面白さを求める」ポピュリズムそのものである大衆の声が、新しい権力になるからである。インテリはエリートであるがゆえに物理的にはいつも圧倒的少数派なのである。

 頭で考えれば、クリントンの方が正しく、トランプの方が危ない。しかし、大衆の心は、トランプの方が面白いと思ってるのだ。選挙はどうなるか分からないが、トランプ的な政治家は、これからも、何度でも現れるだろう。

 英国のEU離脱の問題も、同じような現象だと思う。世界のインテリたちが普通に考えれば、欧州共同体というのは、冷戦以後の新しい地域コミュニティの理想を追求したものであり、産業的にも国防的にも、離脱はありえないと思うが、大衆の意識は、そのような「正しさ」を求めているのではないのだろう。イギリスには田中角栄的なヒーローは見受けられないが、「Brexit(ブレキジット)」という運動そのものが、田中角栄的な「大衆の現状打破への期待」なのかも知れない。

 トランプも、Brexitも、世界にとっては、大きな脅威であろう。それは現状否定が最大の価値になっているところである。現状閉塞の状況に、新しい刺激を投げ込むことは出来るが、その先に、ビジョンがまるでないし、現実的なものではない。それでも、絶望的な現実の中では、そうした1億分の1の可能性に賭けてしまうのかも知れない。

 インターネットが「面白ければ良い」というのであれば、人は、強いものが失敗したり、威張っているものが情けない顔をしているので溜飲を下げるだろう。舛添都知事の問題も、こうしたインターネット的状況につながっているように思う。舛添知事のせこさを攻撃するのはよい。では、彼を辞めさせて、一体、誰を肯定したいのか。そうしたビジョンがなくて、ただ、現状を変えたいというのは、トランプ現象やEU離脱と同じだろう。

 猪瀬前都知事は、都知事としてよく仕事をしていたと思う。彼の失敗をただ叩いただけのマスコミは、一体、何を肯定したいのか。猪瀬、舛添と続く、都知事の騒ぎを見ていると、マスコミは、昔の社会党みたいに「ただ反対するだけの野党」としか思えない。否定の力は必要だが、それは、同時に、新しい肯定を育まなければならない。

 インターネットに「肯定の力」を生み出すことが出来るかが、人類の成熟度をはかるパロメーターになるだろう。もしかしたら、僕らは、まだインターネットを手に入れるのは早すぎたのかと嘆息が出る時もあるが(笑)ままよ、友よ、前向きに進もう。

 

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