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出版構造論ノート(3)新しい次元に来たソーシャルメディア。「note」についての一考察

★このテキストは、他媒体用に書いたのだが、「note」を使ったことのない人には分かりにくいだろう、ということで、こちらで公開することにしました。

1.平時のFacebook、乱世のTwitter

 メディアは、1点から世界に向けて放送する「1対n」の方式と、「1対1」のコミュニケーション手段である通信との2つの方式があり、それぞれ進化してきた。江戸時代の高札などは、藩主が統治する民衆に広く告知するものであり、中世のイギリスでは「タウンクライアー」という職業があり、さまざまな情報を大声で叫びながら町中を走ったそうである。この方式はやがて瓦版や新聞になり、ラジオ、テレビと進化してきた。通信の方は、古代の狼煙通信やドラム通信があり、やがて飛脚になり、近代になると郵便制度が発展した。インターネットとは、まさに、放送と通信を融合するものであり、「個人から個人に伝えるべき通信」を同時に「全世界に放送」する機能を持つようになった。

 その流れの中でソーシャルメディアが生まれ、現状ではFacebookとTwitterが大きな勢力となっている。この2つの勢力は株式の世界ではライバルのように語られているが、インターネットの本質から言えば、「2つの可能性の追求」でしかない。Facebookは、ブログの進化系であり、出自が大学内コミュニティの活性化の手段であるから、個人の限られた範囲での通信的情報のミニ放送化である。Twitterは、不特定多数への放送の個人化である。この2極は、放送と通信の融合というインターネットの本質的動きの2極であり、どちらかがどちらかを打倒するということはありえないのである。僕は「平時のFacebook、乱世のTwitter」と呼んでいるが、日常的には信頼出来る仲間の日常意識を交換するのにFacebookが最適だが、地震や災害などで、広範囲の人からの情報を集めるのにはTwitterが最適である。ちなみに僕はTwitterのタイムラインは、あまり見ずに、検索を使うことが多い。それも「親の顔が見たい」とか「バカウケ」などのキーワードで検索すると、同時代のさまざまな人のリアルな感情に触れることが出来る。

 さて、2013年の秋に、「Medium」が公開された。これはブログの先駆けである「Blogger」を作り、その後、Twitterの共同創業者にもなったEvan Williamsが開発したソーシャルメディアの新しいソリューションである。FacebookとTwitterの両極しかなかったソーシャルメディアの状況に、新しい風を引き起こした。久しぶりに「使ってみたい」と思わせたソリューションだった。白紙のスペースがあるだけの、とてもシンプルな仕組みだが、書き手に文章を書かせたくなるソリューションであった。

▼「Medium」

2.noteは書くためのプラットホーム

 本年4月7日にサービスを開始した「note」が話題である。スタートさせたのは加藤貞顕氏。アスキーからダイヤモンド社に移り「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(もしドラ)のなどのヒットメーカー編集者として著名であり、独立して「ピースオブケイク」を創業し、デジタルの意味を分かる編集者として出版業界で注目されてきた一人である。

 加藤氏自身が言うように、「note」は「Medium」の登場にインスパイアされたようである。世界の新しい動きにインスパイアされる人は多いけど、実際に行動に移す人は少ない。加藤氏は「Medium」の登場の本質的意味を良く分かっていたのだと思う。

「note」は、課金の手軽さを多くの人が語っているが、僕は別の観点から、この「note」の先進性を感じていた。それは、FacebookとTwitterの両極とは違う、第三のプラットホームの可能性である。

 多くの人は、現在、どのようにして表現媒体を使っているのだろうか。個人的な意見や情報を信頼出来る仲間に伝えたい場合はFacebookに、不特定多数に伝えたい場合は、Twitterだろう。両方を使いたい人は、FacebookとTwitterをリンクさせているだろう。この使い分けが、結構、悩むところである。Facebookにあがってくる情報は、個人の責任が明確なのでしっかりとした情報が多いが、Twitterの広範囲な噂話も捨てがたい。僕はよく、Facebookにあがってきた情報をTwitterに流したり、TwitterのネタをFacebookにアップしたりしている。

 この悩みを解消してくれるそうなのが、第三のプラットホームである「note」である。ここのところ、僕はこういう使い方をしている。まず書きたいことは、「note」に書く。その上で、Facebookで読んでもらいたい時はFacebookにリンクして、Twitterで広めたい場合は、Twitterにリンクする。書きたいことがあれば、まず「note」に書いて、その上で公開するプラットホームを決められるのである。インターネット上の「書く」ということのプラットホームになりうるのだ。そして、この方式が定着すれば、FacebookとTwitterのフォロアーとのパイプが出来て、「note」の大きな機能である「課金」への誘導が可能になるのではないかと思っている。

3.僕の課金ルール

「note」の課金システムは、サービス開始以来、多くの人が具体的な実験の追求をはじめていた。有料にしつつ全文を公開してしまい、賛同してくれる人に課金をお願いする「投げ銭システム」は、多くの人が試していた。また課金すると、その部分は、Googleの検索ロボットにも引っかからないので、検索されたくない情報を公開する場合にも使える。クイズを出して答えを課金する人も出てきた。多くの人が課金について、考えたり実験したりすることだけでも、「note」の社会的意味は大きいと思う。

 僕の作ったルールは、こういうものだ。まず、テキストは無料で公開する。「note」にはFacebookの「イイネ!」のように「★スキ」というボタンがあり、読者はそれを押せる。「★スキ」が20個ついたら有料にする。これまでのコンテンツは、書き手が有料か無料かを一方的に決めていたが、読者の反応がよいものを有料にする。「★スキ」が20個たまるまでは無料なので、タダで読みたい人は、頻繁にサイトに来てもらえればよい。二次情報三次情報で、アクセスした人には有料となっていたりする。

 この方式を考えたのは、インターネット以後の出版構造の大きな問題点の突破口になるかも知れないと思ったからである。

4.雑誌部と書籍部

 僕は長い間、出版の世界の中にいて、出版の内容もそうだけど、制作されるまでの構造や伝達されるまでの構造に最初から関心があった。インターネットという情報の新しいインフラが登場して、古い構造はどんどんきしんできた。新大陸では旧大陸の商習慣や経験などが尊重されないのは当たり前のことだろう。

 ものを書く人間としても、さまざまなメディアと付き合い、編集者と付き合ってきた。インターネット以前と以後では、編集者の気質や方法論も大きく変化したことを知っている。以前を知る人間としては、以後の現状を整理して見る役割があるのではないかと思う。

 大きな出版社には雑誌部と書籍部がある。だいたい仲が悪い。それは同じ出版事業を担いながらも、方法論が違うからである。雑誌は、世界の最先端の動きをいち早く捉え、いち早く多くの人に伝えることがテーマである。時間との戦いと言ってもよい。それに対して書籍は、じっくりと時間をかけてテーマをにつめ、時間をかけてゆっくりと次の世代へ継承していくことが文化行為だと思っていた。書籍にとって時間は敵ではなく、時間の流れの中に作品を流していく感じがあった。

 それがインターネットの登場を予感しはじめた80年代から変化しはじめた。いや、70年代ぐらいから、先鋭的な雑誌は、インターネットの時代を予感していた。「ぴあ」は旧来は新聞に小さく掲載されるだけの映画情報を独立した価値と認め、拡大していくことに成功した。「ポパイ」は、アメリカを中心とした新しいトレンドをカタログやコラムという形式でアーカイブすることによって、新しい誌面の読み方を開発した。「FOCUS」は、写真とコラムの組み合わせによるビジュアル・ジャーナリズムを成立させた。地方で、地域独自の情報を集めた「タウン誌」がブームになった。僕は「ポンプ」という今のブログやTwitterのような全面投稿雑誌を創刊した。いずれも、インターネットが登場する以前に、インターネット的なるものを追求していたのだ。だから、本物のインターネットが登場すると、存在意味を失い、多くは崩壊した。それは「雑誌の役割」の崩壊でもあった。

5.雑誌の役割の崩壊

「雑誌の役割」の崩壊は、出版構造そのものに大きな変化を与えた。かつて物書きは、雑誌の依頼原稿で、原稿の必要経費と執筆労働の対価を得ていた。そして、ある程度、たまると雑誌に書いた原稿を再編集して、書籍化して、印税をもらった。つまり、雑誌の原稿料が給料だとすると、書籍の印税はボーナスみたいなもので、ボーナスはその人の力量で安かったり高かったりしたが、新刊書籍の発行は、その物書きの評価を高め、新たな雑誌原稿の依頼につながっていった。そうしたサイクルの中で、出版文化というのは成立していた。文芸雑誌は赤字でも、そこに連載した作品を書籍にすることで、出版社も利益を出すことが出来た。マンガも大量生産装置としての雑誌と、大量ロングテール販売としてのコミックスという両輪で利益をあげていった。

 しかし、インターネットの普及によって、雑誌の社会的価値、広告的効果がどんどん低くなり、雑誌の販売は低迷し、広告入稿も減ってきた。その分、制作コストが削減され、依頼原稿や寄稿というスタイルが減ってきた。物書きに原稿を依頼して、何があがってくるのか分からないまま締め切りを待つよりも、インタビューして、都合のよいところだけ原稿にしてしまえば、編集作業も楽だし、何よりも原稿を依頼して支払うより、インタビューで支払う謝礼の方が、はるかに安くて済む。しかし、このことが、物書きから、本気で書く場所を奪い、原稿を依頼し編集するという編集者の側のスキルが低下していった。

 女性誌などでは、「ブランドアイテム付き雑誌」というのが全盛であるが、付録のブランド品の制作費は、別途に出版社が用意するのではなくて、これまでの編集費の総額の中から使われるので、それはつまり、編集費が減って、原稿依頼などがますます出来にくくなるということである。「おまけ付きの号ほど、本誌の中身がスカスカね」というのは、女性読者がよく言っていた。

 雑誌の崩壊は、書籍にも影響を与え出した。雑誌で原稿料をもらってじっくり書き上げた原稿を、更に再編集して書籍化されたものは、情報の密度や著者の想いの高さも格段のものがあったが、雑誌崩壊以後は、書籍をいきなり書き下ろしするような傾向が増えた。あるいは、ブログなどに書き散らしたテキストをそのまま書籍化することも増えた。書籍が雑誌化してしまったのだ。

6.これからの出版

 さて、僕が「note」に期待するものがお分かりかと思う。インターネットの登場によって失われた、「雑誌で書いて書籍化する」という構造を、もういちど復活させたいのだ。「note」はまだはじまったばかりだが、開始2週間で5万人のユーザー登録があったと言う。それぞれの人が、さまざまな課金の方法を追求して、「note」でまず原稿執筆の労働対価を得る。しかるのち、それをまとめて書籍化するという構造が見えてきた。

 ネットで売っているものを書籍化しても買う人がいないだろう、という人がいるだろう。しかし、まだまだネットと世の中は別のものなのだと思う。かつて「電車男」が話題になった時、ネットを使っている人たちのところには、「電車男が面白いですよ」というメールがあちこちから届いた。それを書籍や映画にした時、その本を買ったのは、ネットの住人ではなく、それ以外の人たちなのだと思う。ネット発で、ネット以外の人たちをマーケットにする書籍というのが、ありうるのだと思う。

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