ロッキングオンの時代。第二十八話■岡崎京子ちゃんのこと。

(1)ROの会

◇2015年3月4日に、NHKの「おはよう日本」で、岡崎京子のことがとりあげられた。世田谷文学館で行われている「岡崎京子展」の話題を追いかけたニュースだ。

◇僕のところにも取材に来た。文学館のスタッフの方も、表紙に、岡崎京子の写真が写っているポンプを探しにおいでになった。

◇京子ちゃんのことを、整理しておく。これまで、思い出すと辛い気持ちになるので、あまり触らないようにしてきた。でも書いておこう。

◇僕は1972年、大学生の時に仲間たちとロッキングオン(通称「RO」この通称は僕が作った)を創刊した。この雑誌は、ロックの本当の主役はスターではなくファンの方にある、という立場で当初、投稿雑誌の形態をとった。僕は楽器は弾けないが、言葉でロックミュージシャンがやろうとしたことをやるんだ、という意気込みがあった。

◇すごいファン、変なファン、むかつくファン、怪しいファンなど、多数のファンが編集部に寄ってくれたり、手紙をくれたりした。取次を通して全国書店で市販をしたのが創刊から1年目。それから、6年間ぐらいは、僕の部屋がロッキングオンの編集室だった。編集長は、渋谷だが、編集室長は僕。

◇いろんな読者と交流した。また僕のところに遊びに来てた読者同士の交流も始まった。

◇「ロッキングオンの会」というのがあって、これがすごい会で、会員登録すると、雑誌に住所氏名の連絡先リストとして公開される。個人情報もへったくれもあったものではない。そして、事務局は何もしない。登録した人同士で勝手になんでもやれば、というもの。2000人近い人が登録した。この頃は、僕が写植をうっていたので、住所の写植うちも校正も全部自分がやった。渋谷は「また橘川がわけのわからないこと始めた」という顔をしていたw 

▲ロッキングオン1978年12月号

◇「オルタナ」という雑誌をやっている森くんが、オルタナ創刊前に僕のところに相談が来て、「僕はROの会の2ケタ番号です」と言っていた。いろんな人が、その後、あちこちで生き延びているだろう。

◇岡崎京子ちゃんは、そういうROの読者のグループの中にいたのが、最初の記憶である。高校生だったと思う。ROの会に集まった人たちを、中心として、僕は「全面投稿雑誌・ポンプ」を企画して、当時、写植の仕事をしていて付き合いのあった宝島の大西くんに持ちかけた。別冊宝島がスタートして、タイトルの写植などを打っていた。僕は、これからの時代のあらゆる仕事に興味があったので「仕事カタログ」の企画を作った。いろんな職業についている人たちに、その仕事の魅力を語ってもらうインタビュー企画だ。最初は、宝島の本誌で連載になり、ある程度やった時に、別冊宝島でまとめることになった。担当編集者は、渡辺尚子さん、カメラマンはROの斉藤陽一、イラストは故・本田義高。インタビュアーは僕。本が出たのは、1977年。まだフジテレビの新人だった、田丸美寿々さんとか、いろいろな人にインタビューした。

◇ちなみに、8年ほど前に、中村こども君という、若いカメラマンが事務所に来たのだが、どうも見た顔だなと思って話していたら、なんと、渡辺さんの息子だったという偶然。

◇別冊宝島がそこそこ評価され、更に何か提案してみようと大西と相談して、提案したのが「ポンプ」。

(2)投稿魔たち

 ポンプが創刊されると、京子ちゃんから、イラストの投稿が来るようになった。一枚ずつ投稿してくるのではなくて、束になったイラストが封筒で送られてくる。高校の授業中に描いたのだろう、落書きのような、用紙も大きさもバラバラなイラストだ。最初は、エンピツで下書きしたものをペンでなぞったようなものもあったと思うが、だんだん、そういうこともなくなり、一気に描いたような絵だ。その絵は、今、いろんな本になっている作品と変わらない。技術ではなく、自分の気持ちや意志を、そのまま紙にぶつけたような、あふれかえったエネルギーがある。そして、ひと目見て、すぐに京子の絵だと分かる個性がある。

 日本中からさまざまな人がイラストを投稿してきた。今でもイラストレーターとして活躍している人も少なくない。岡崎京子、岡林みかん、石井裕子などの女の子たちの投稿が人気になり、男では、神戸U一の絵が個性的で注目された。

 京子は大量に投稿してきたが、掲載されるのは1点か2点だった。これはテキストでもそうだけど、才能があるといって特別に扱うことをしないというのが、ポンプの姿勢だった。でも、読者の方で京子のイラストのファンが増えて、岡崎京子ファンクラブが出来たりした。たぶん会長は、中村道明だったと思う。岡崎京子は、神戸U一のファンクラブを作り会長になったりした。

★岡林みかんのイラストは、今も成長していて、嬉しい。

★小塚類子も初期の投稿者だった

 中村道明は、千葉の高校生でロッキングオンの読者だった。当時、インターネットもYouTubeもなく、好きなアーティストで日本未発売のアルバムは、新宿レコードとか輸入盤を扱うレコード屋で一枚一枚探しながら購入しなければならなかった。道明がはじめた、レコード交換の会は、それぞれが購入した輸入盤を相互に交換する会だった。京子はその会にも参加した。

 鈴木琢という子がいて、190ぐらいの高身長で、めだった。ポンプの読者の集まりや、読者がみんなでポンプの編集部に遊びにきたりすることも多く、京子と琢は自宅が近かかったので、よく一緒に帰っていって仲良しだった。琢は、慶応大学に入学するのだが、ロックの音楽活動を開始し、町田町蔵と出会い、バンドを組む。「INU」の解散後のバンドだ。

 琢は、慶応卒業してからマッキャンエリクソン入り、広告マンとして活躍する。その後、ビーコンに移って目黒のオフィスにいた頃は、よく会議室を使わせてもらったりした。その後、ミシュランに入り執行役員。グルメガイドのミシュラン本の日本版発行の推進者である。

 琢と京子はずっと友人で、それぞれが結婚した時に、結婚式では、それぞれ友人代表でスピーチしたりした。今でも、琢は定期的に京子のご家族が経営している理髪店で散髪をして、京子をはげましている。僕も、琢に呼ばれて何度か、訪問させていただいた。

 あと、これも偶然の出会いなのだけど、久米繊維工業の久米信行くんという僕の盟友がいるのだが、彼の慶応大学時代の友人が鈴木琢だった。ふたりとも、ギラギラしたロック少年で、友達は少なかったと言ってた(笑)。

(3)時代

 時代とは出てきた者だけが仲間である。同時代とは、同じ場所にいて、同じ空気を吸って、でも、それぞれが別の言葉を吐き出そうとするものだ。単なる時代の表層だけを語って時代を語ったつもりでいる人間は信用しない。それは、たかだか時代の被害者でしかない。京子のイラストは、彼女の時代に対する想いであり、彼女自身の言葉であった。それは明確に、時代の加害者たらんとする姿勢である。

 いつだったか、ブルーハーツのヒロトとマーシーの事務所に行ったことがある。名刺を交換すると「あっ、きつかわさんじゃない。ポンプ、読んでました!」と言われた。デーモン小暮はテレビでポンプのことを語っていたという。僕の知っているのは早稲田の小暮くんという投稿者がいたこと。フジテレビのアナウンサーになった中井美穂ちゃんは、学生の時に、よく遊びに来てた。尾崎豊は青学の中等部の頃、投稿していた。同じ学校のマツグという男は、体育の柔道の授業で尾崎を投げ飛ばしたと言ってた。

 そうなんだなあ、僕はやっぱり、時代が好きなんだよ。そして、時代で有名になった人ではなく、有名になる前の可能性のかたまりだけの、無名の、普通の、時代を吸い込んで、思いっきり吐き出そうとしている人が。有名になったら、あとは外側から見ているしかない。

 そうなんだ。やっぱり、僕は、時代の可能性と出会うメディアを作り続けなければ。無名で、いつか有名になる人たちとの交流という、ぜいたくな時間を創りたい。

(4)70年代

この続きをみるには

この続き:3,740文字/画像1枚
記事を購入する

ロッキングオンの時代。第二十八話■岡崎京子ちゃんのこと。

橘川幸夫

100円

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

顔、ほころぶ。
40

橘川幸夫

橘川幸夫コミュニティ・マガジン(思考note)

参加型メディア一筋。メディアの活動家、橘川幸夫が体験した中で感じたこと、考えてきたことをベースに、時代のシーンに対して考察します。月額1000円。★since 2016/04
1つのマガジンに含まれています

コメント1件

今のロッキングオンから、私の知らないロッキングオンの話を知る事が出来て感激です。去年、橘川さんのロッキングオンの時代のイベントに参加出来なかったので、この話を知る事が出来て嬉しかったのです。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。