啓蒙との闘い


 物心がついて、大学に入って、最初に感じた反発が「啓蒙」である。68年の入学なので、キャンパスは啓蒙の嵐であった。左翼も右翼も中道も、みんな啓蒙していた(笑)。どんなに素晴らしい理論であろうと、外部からの知識や思想を自分のもののように語ることに生理的な抵抗があった。そして、そこから、僕の啓蒙との闘いが始まる。

 ロック音楽に出会って、それまでの啓蒙とは違う空間的影響に感動した。音楽は素晴らしいものであるが、当時のロックは、それまでのクラッシックやJAZZと違い、才能や努力とは違う迫力をライブ会場やロック喫茶で感じた。それはまさに素人の音楽で、やりたい奴が、ちょこっと技術を学んで、すぐにステージに駆け上がるような感じである。日比谷の野外音楽堂のライブに行くと、こないだまで、観客席の隣にいたやつが、次の回には、ステージの登っているような気がしたのだ。そこには才能とか熱意とかとは異質な、ストレートな個人性の発露があった。そして、ステージと観客席は別の世界ではなく、同じ時間と空間の広がりの中にいた。これだ! と思った。

(もっとも、ロックは素晴らしいものだと啓蒙したがる奴も多かったが、これもパラドックス)

 22歳の時に、「ロッキングオン」の創刊に参加した。僕は、ロックがこれまでの芸術とは違って、発信者側と受信者側が、同じ時間と空間を共有するものであり、ロック雑誌ならば、そういう方法論を追求しなければならないと思った。読者にひたすら、こちら側に来いというメッセージを出しつづけた。そして28歳の時に、全面投稿雑誌「ポンプ」を創刊した。僕の理想の参加型メディアである。ちなみに「参加型メディア」という言葉は、僕の作った造語である。ついでに、最近「モノづくりからコトづくり」という言葉をよく目にするが、これは10年前に「暇つぶしの時代」(平凡社)の時に僕が作った言葉である。どうでもよいか(笑)

 参加型メディアは、僕が作った言葉ではあるが、すくなくとも、70年代に意識して参加型メディアを追求していた人はいないだろう。充実した投稿頁を作ろうとした人はいたかもしれないが、それは、あくまでも本体の古い雑誌の「おまけ」としてである。僕は古い出版物の発想には興味がなかった。なぜなら、それは、「啓蒙」だったからである。

 啓蒙とは、無知な大衆に新しい考え方や知識を伝えようとするものである。これは、明治になり、それまでの農村型共同体の中で培われてきたルールや概念や価値観を、近代の工業化社会や国際性の中で否定して、新しいルールを注入するものであった。明治以来の知識人やエリートの啓蒙により、日本は急速に近代化を進め、世界の大国になった。そしてその方法論は、戦後も変わらない。戦後すぐに「あちら族」という言葉がはやった。これは、外国生活をしてきたエリートの奥さんたちが、すぐに「あちらではそういうことしませんのよ」と、農村共同体意識の残滓が根強かった一般庶民に対して、さらなる近代化を推し進める力として、欧米のライフスタイルや考え方を啓蒙したのである。

 さて、僕は10代の時に感じたことは、「近代の超克とは、啓蒙からの超克である」ということである。「ポンプ」の投稿者への唯一のメッセージは、「実感と体験に基づいた投稿をお願いします」というものであった。勉強した理論や世界情勢ではなく、自分自身の生活の中で感じた実感と、自分の生身が体験した出来事を教えてくれ、ということである。知識には階級があるが、感情と体験には、階級がない。それぞれの人、固有のものであり、固有であるからこそ、僕らは共有する価値があると思ったからである。

 30歳になるまで、僕は、啓蒙との闘いが近代を超えることだと思っていたし、それができるのは、外部からの知識に洗脳されていない、無垢な若い世代の役割であり、特別なインテリではなく、普通の生活者であると思っていた。啓蒙の書は、読者をひとつの具体的な人格として認めることなく、抽象的な量とするから、一方的な刷り込みをしようとする。優秀な奴ほど、やがて無自覚に啓蒙する立場になっていくことに悲しさと怒りを何度も感じた。

 そして、31歳でポンプをやめロッキングオンをやめ、生活の糧であった写植屋もやめた。そこで僕は一度死んでいる。気持ち的には、砂漠に向かうランボーの心意気であったが(笑)、若さと無知であるが故の方法論は、30歳を超えてまで維持することはできないと思ったからだ。そして31歳で「企画書」という単行本を初めて出版した。

 それまで単行本は読むものであり、書くものではないと思っていた。単行本は、なにかいさぎよくなく雑誌が素晴らしいものだと思っていた。なぜなら、単行本は作品であり、個人の啓蒙の道具であるが、雑誌は、ひと月したら価値のなくなる刹那的なものであり、しかし、ライブ空間そのものであり、読者と一緒に時代そのものを疾走するスピード感があった。20代を終了して、次の時代に入った時に、単行本を出した。その本を出した時の自分の微妙な気持ちを覚えている。「ああ、おれも、終わったのだ」という敗北感である。

 しかし、まあ、本を出してみると、それまでに出会えなかった読者たちから、連絡が来たりした。大人の人たちである。いろいろな講演会などにも呼ばれたり、業界雑誌に連載を頼まれたり、そこで出会った人で生涯の友人になった人も少なくない。「ああ、啓蒙も悪くはないな」と、10代の自分からすれば許せない人間になっていた(笑)。「企画書」の巻末には、僕の住所が書いてある。その後の僕が出したすべての書籍には、住所かメールアドレスが入っている。僕にとって書籍とは、表面的には啓蒙の書であるが、奥底の気持ちは時代に生きている人へのラブレターである。

 そこからは、単行本は読むものではなく書くものである、と認識を変えて生きてきた。そして、メディアの中で、いろんな実験を行ってきたし、今もしている。今では本の著者で、啓蒙もしますが、でも、魂の根本の部分では、最後の啓蒙者になりたいと思っている。それは「啓蒙を超えることが近代を超えることだ」という、僕の中の意固地な想念がしっかりと残っているからである。「啓蒙と戦うことが最後の啓蒙」という矛盾し自覚が大切だと思っている。無自覚な啓蒙者は敵である。インターネットという未来型のメディアインフラが出来たのに、まだ「あちら族」がはびこっているのではないですか(笑)。そしてCGM(Consumer Generated Media)という言葉が登場したが、そこには「啓蒙との闘い」という近代の壁に対する本質的な対峙がなく、コストのかからない安易なコンテンツ確保という合理主義しか見受けられない。思想なき、IT成功者の群れよ、君たちの手応えというものを確かめてみよ。足元の軸が時代の地殻に届いているか、確かめてみよ。

 啓蒙合戦の最たるものが近代の選挙制度である。僕は選挙は行ったり行かなかったりするが、行かないと「そういう人間が社会を悪くする」という説教する人間が苦手だ。近代の選挙制度が、すでに破綻しかかっていることは明らかだと思う。代理人をたてて、社会がよくなるわけがない。「森を見る力」で書いたが、選挙というこの社会の中でもっとも苛烈な競争を勝ち抜いた人に、競争社会そのものを否定する政策ができるわけがないと思っている。

 今は過度期である。強烈な近代の方法論に、ほころびとひびが入りつつある。その先に、輝かしい未来があるのか、残酷なリアリティが待っているのかはわからない。すくなくとも、壁のこちら側の近代の価値観では理解できないものになるだろう。ほころびとひびを探りながら、壁の向こう側を想像してみるだけだ。壁の向こう側のイメージは、次の単行本で書いてみようと思う。




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あんがと。
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橘川幸夫

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