不寛容の時代って、なんだい●情報小料理屋 2016/06/13

  日本社会には「本音と建前」があった。これは自然な共同体であれば、どこの国でも同じだと思うのだが、本音では自分の考えとは違うなと思っても、みんなが決めたことだからと本音とは違う建前に従うことがある。本音と建前の間に空間があって、その塩梅を読んで、人は共同体を維持してきた。

 法律とは建前の絶対化である。法律が策定されれば、本音では「おかしいな」と思っても、人々は従う。日本人、とくに、決められたことに素直に従う民族だと思う。アジアは本来、契約社会ではないから、30年ぐらい前までは、アジアの貿易なんか、たいした契約書もなく、信頼関係でやっていた。出版業界などというムラ社会では、著者と版元が契約をちゃんととり交わすのが当たり前になったのは、バブル以後だろう。

 契約は法律に裏打ちされた建前の束縛化である。一度、契約したら、融通がきかない。しかし、今でも古い村の感覚の人は多く。契約書を交わして納品寸前になって、追加作業を契約予算の中でやってくれないか、と頼み込むクライアントがいて、インド人もびっくりする。

 法律というのは、一度、決まったら、後退はしない。どんどん進化して、逃げ道を塞いでいく。日本の官僚は優秀で、ただ官僚には営業成績というものがないから、評価は、どれだけ法律を作ったかになっている。

 おそらく、近代以後、そしてバブル以後、急速に息苦しい社会になってきたと感じるのは、日本が曖昧な国から、法律で縛られた契約社会になってきたからであろう。デジタル化の進行が、国民監視社会になり、法律の逸脱を逃れられないようになってきている。

「義理と人情を秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たいこの世の世界」と、高倉健さんが歌ったが、この場合、義理は建前、人情は本音。親分の言い分が不条理だと本音(人情)では思いながら、建前(義理)によって、親分の言うこと、組織の掟に従わなければならないというヤクザの悲哀を歌ったものである。

 本来、多くの人たちの「人情」の海の中に、「義理・建前・法律」があったのだが、それが逆転してしまった社会なのではないか。個人的にはエコロジカルな世界を夢見ているのに、給料もらってる会社は、反エコロジカルな会社だけど、生活のためには、本音を捨てて建前に従わざるを得ない。

 人間が生きる限り、建前とは違う本音の部分というものがある。それは小さな犯罪行為かもしれないし、小さな反道徳行為かも知れない。バイト先の文房具を黙って持ってきてしまったのかも知れないし、コンビニで店員がおつりを間違えたのを知りながら出てきてしまったことかも知れない。建前としては、「店員さんに言わなければいけない」と思いつつも、「ラッキー!」と微笑んでいる本音の自分もいる。

 問題は、そうした小さな本音が、すべて全体の力で監視され、いつでも引き出せるように出来ることになったことである。内閣調査室は、各党派の政治家のどんな本音の部分も探り当てて、ファイル化してあると言う。つまり、どういう政治家だろうと、時の政権が潰そうと思えば、潰せる力があるということである。

 犯罪に至らないまでも、グレーな部分は人間には必ずあるから、あとはマスコミがあおれば社会的に抹殺することが出来る。これは政治家だけではなく、ネットにも内閣調査室みたいな人たちがいて、情報重箱のすみからネタを引き出してきて炎上が起こる。

 社会システムを、頭脳だけで考えて、人間的な本音を悪徳として排除する方法論で進めてきたのだろう。そりゃあ、官僚が頑張れば頑張るほど、窮屈になるわ。

 セクハラだって、パワハラだって、最近起きたことではない。大昔から、もっとひどいセクハラやパワハラは日本に蔓延していた。それは、男や経営者の本音の部分なのかも知れない。昔から、たいして変わらない現象なのだが、違うのは、それらが家や会社の中だけで完結しなくて、社会全体から見えるところに、ひきずりだされることだろう。セクハラやパワハラを法律だけで縛ろうと思っても、うまくいかないと思う。それは、変質した別のセクハラやパワハラになる。問題は、男や経営者の本音そのものにあるのだが、それを根気よくほぐしていくことが大切だと思う。それは法律の規制という即効力ではなく、相互のコミュニケーションを活発化し、持続的に社会の考え方をチェックしていくやり方しかないと思う。

 官僚は、法律命だから、クレームに弱い。クレームとは、多くの場合「建前」にのっとっている。保育園の子どもたちの騒音がうるさくて、騒音条例に違反しているのではないか、とかというクレームが一人でも入ると、それの対策で行政はてんてこまいになる。公園の鉄棒で子どもの事故があると、全国の公園から鉄棒が撤去される。法律がヒットラーのような絶対君主になっていないか。そうやって、本末転倒な、住みにくい社会が出来上がる。

 クレーマーも、クレームをつけることが本音だろう。しかし、その本音は、自分の気持ちを相手の些細なミスや、法律や社会正義に仮託してぶつけてくるから、面倒くさい。僕も、この年になって、バスでスマホでメールやってたら、どこかのジイサンに怒られた。彼は、ずっと会社の中で、会社の正義を盾に、部下たちを叱っていたのだと思う。不寛容とは、相手とのコミュニケーションを拒絶して、自分の外側にある正義に、価値観を委ねることかも知れない。

 舛添さんの騒ぎを見ていると、テレビというマスコミは、クレーマーの増幅装置なのかいな、と思う。視聴者全員をクレーマーに変換する装置か。いやだいやだ。

 法律の監視から逃れるには、自分からSNSに情報を公開しなかったり、社会と隔絶したところへ引きこもるしかないのだろうか。そうではないと思う。それぞれが本音を出し合いながら、うまく建前と調整する機能があればよいのだと思う。個人と全体がスムースに交流し、融合できる装置が必要なのだ、そういう知恵を、僕らの先達は知っていたような気がする。

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不寛容の時代って、なんだい●情報小料理屋 2016/06/13

橘川幸夫

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橘川幸夫

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