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東京論(1)さよなら渋谷。こんにちは池袋。


1.東京の発展

 東京は生き物のように重心を変えながら動いている。江戸時代から大正時代くらいまで庶民の中心地は、浅草や神田や両国・錦糸町などの下町であった。江戸時代は、靖国神社のある九段下までが下町で、九段上から先は山の手と言われていた。東海と東北を結ぶ路線として品川・上野・赤羽間に出来た路線を、山手線として環状線に出来たのは、当時は山の手側には住人が少なく、土地買収がたやすかったからだろう。山手線が出来てから、東京の中心は、下町から西南の方へ移っていった。かつて若者のデートのメッカであった浅草は、山手線から外れることによって、さびれてしまった。

 東京の都市化が進み、地方からの人口流入が激しくなると、労働者の娯楽や飲食のエリアとして山手線を中心に繁華街が発展する。銀座・有楽町が最初に栄え、新宿、渋谷、池袋は、山手線の外側への私鉄の乗換駅として急速に発展した。通勤の帰りにターミナル駅で私鉄に乗り換える時に「ちょっと一杯やっていこうか」ということで、それぞれの飲屋街に戦後のサラリーマンは向かったのである。

 銀座・有楽町、新宿、渋谷、池袋という町のベースにあるのは飲み屋である。やがて東京は、山手線以外に地下鉄の建設が進み、縦横無尽に地下を鉄道が走るようになる。私鉄は地下鉄と相互乗り入れが進み、山手線のターミナル機能は薄れ、飲屋街はすたれてきた。80年代くらいから、サラリーマンは、会社の近くて飲むか、自宅近くの駅周辺で飲むことが多くなった。

 しかし、戦後の成長は豊かな消費社会を生み、ターミナル駅は夜の飲食産業ではなく、昼間の消費産業がメインになってくる。とりわけ新宿、渋谷、池袋は、私鉄資本によるデパートの巨艦店が発展し、人々の消費の意欲を高めた。西武と東急の戦いは、東京への人口流入が増えれば増えるほど、苛烈な争いになっていった。

2.若者の町

 戦前までは、浅草や銀座あたりが「若者の町」だったのだろう。戦後の高度成長の中で、最初に「若者の町」と呼ばれたのは新宿である。60年代後期から70年代前半の新宿は、演劇や文学や政治や音楽の新しいムーブメントを引き起こそうという若者であふれていた。「木馬」や「DIG DUG」「ピットイン」と言ったJAZZ喫茶から、「ソウルイート」「サブマリン」などのロック喫茶が現れ、「風月堂」や「青蛾」といった喫茶店には、得体の知れない若者たちがたむろしていた。新宿駅の周辺には「フーテン」と呼ばれる若者たちがホームレスのように駅構内で寝ていたりした。路上でのハプニングというパフォーマンスもよくやっていた。

 しかし、社会のシステムが整備されて、更に豊かになってくると、若者の町は、渋谷になり、六本木になり原宿になり、下北沢や自由が丘や吉祥寺に分散されていく。しかし、新宿が「若者の町」と呼ばれていた時代と、渋谷とは本質的に異なるものがある。新宿が「若者の町」と呼ばれていたのは、まさに若者の想いや感性が主役の町だったからである。しかし、渋谷は若者の町ではなく、若者を相手に商売する大人が主役の町である。かつて若者が時代意識を先取りして作っていた文化を、大人たちが後追いして商売にしていたものを、現在では、大人たちの方が情報収集力によって時代意識を先行キャッチして、若者たちを誘導する。新宿は時代を作る若者の町だったが、渋谷は、時代感覚を商品として購入してくれる若者の町になったのだろう。それは、70年代以降、日本が消費大国として発展してきた現実を表している。

 東京は、日本の成長とともに拡大し、新しい文化の中心を移動してきた。急激な成長を望めない、これからの日本社会の中で、次は、どのような重心を持つのだろうか。

3.渋谷

 2013年の東急東横線と地下鉄副都心線の相互乗り入れは、渋谷駅を地下に埋め、その使い勝手の悪さから、いまだに多くの利用者の顰蹙を買っいる。僕は東急東横線の学芸大学駅を利用する住人だが、渋谷に行く回数は、地下駅以前に比べて10分の1以下になっている。(JRに乗るときは、バスで目黒まで出て乗車)

  東急グループは渋谷をどのようにしたいのだろうか。都市計画案の駅街区開発計画によると、廃止した東急線の地上駅や、東横デパートなどの場所に、ヒカリエのようなビルを3本建てるということである。上層部はハイグレードオフィス、中低層部は商業施設にする。国内外から企業を誘致して、国際的な都市にするという。まるで六本木ヒルズの構想そのままだ。森ビルグループだけでなく、三井不動産も三菱地所も、同じような大規模都市開発をやっている。しかし、いずれも、大規模な再開発用の土地が確保されたり、大型の自社ビルを時代のニーズに合わせて高度化するという意図があった。しかし、渋谷の町は、渋沢栄一翁以来、東急グループが地域住民を育てて、地域住民とともに成長してきた町なのである。

 東横線の地下化に伴い、東横デパートにあった「東横のれん街」が、井の頭線の地下にある渋谷マークシティに移動させられた。東横のれん街は、駅に向かう通路のような立地にさまざまな店舗があったから乗降の行き帰りに重宝していた。老人には、なじみの「佃煮屋」とか「和菓子屋」があり、渋谷に行った帰りに買うのが楽しみという人は多かったと思う。渋谷マークシティは、そうした動線から切り離された僻地にあり、そこまでわざわざ買い物に行くことはなくなるだろう。それであれば、単なるデパ地下と変わらない。買い物も、住民と東急グループとのコミュニケーションによって生活文化になっていたのである。そうした具体的な地域住民の利便性より、抽象的な国際性を追求することが重要なのであろうか。東急は、国際性を追求することによって、渋谷エリアを生活圏にしてきた地域住民を敵に回してしまった。敵とは言わないまでも、一緒に街づくりをする同志とは思えなくしてしまった。

 願わくば、最後の生活者の聖域「渋谷市場」だけは、なんとか残してもらいたいものだ。

4.安藤忠雄さん

 建築家の安藤忠雄さんは、高卒で建築家になり、個人住宅の設計からはじまって、昨年にはフランス芸術文化勲章の最高峰であるコマンドールを受賞した世界的な建築家である。渋谷地下駅の基本設計は、安藤さんの仕事である。不自然な地下のドームのような空間は、宇宙船をイメージした「地宙船」ということだ。建築物に建築家の意匠を持ち込むことは必要だと思う。ただし、それは実用性を犠牲にしてまで行うものではない。

 安藤さんは、神宮外苑の美観を損ねるという非難の声の高い、国立競技場改築コンペの審査委員長である。つまり、安藤さんが最終的に判断したのである。

 建築家が施主と議論し、コミュニケーションを重ね、数々のすばらしい建物を作ってきた安藤さんは、いったい、どうなってしまったのだろうか。私には、それは、生きている住民の存在を忘れて、ビジネス教科書に書いてある抽象的な都市開発を進める東急グループ幹部と同質の「本当の施主が見えなくなった」という現象を感じる。開発室や設計室で、調査データや資料を分析して、図面を起こす。社会がシステム化を追求するだけの時代であれば、そうした方法論も意味があったかもしれない。しかし、これからの時代は、システムの上に成立する、さまざまな生き生きとしたコミュニケーションに価値がある時代であると思う。

 現場の人間の息遣いのしないところで、数字や図形だけを組み合わせて作る建物には命の感覚がない。表現の想像力はあるかも知れないが、それを使う人間への愛情と思いやりの欠けた想像力に何の意味があるというのだ。公共事業の建築物にとって、本当の施主はデベロッパーでも国家でもなく、住民であり国民であるということは言うまでもないだろう。プレゼンに勝つことだけが目的となった時に、クリエイティブ意識は霧散する。

5.池袋の可能性

 渋谷駅の地下化以後、東急線のホームや車両の中で、中年女性たちが「渋谷は不便になったわねぇ、これからは新宿ね」という声をたくさん聞いた。土日に渋谷に行くと、人混みは相変わらずである。池袋以西の練馬、埼玉方面から渋谷に来ている人が増えたのかも知れない。実際、私も同じ東急ハンズに行くのにも、渋谷ではなく新宿の東急ハンズまで行くことが多くなった。

 渋谷は、東急建設が中心になって国際都市を目指して進んでいくのだろうが、私が関心を持っている地域がある。それは池袋東側である。池袋は渋谷に比べて、暗く荒んだイメージがある。私の世代だと、池袋という地名で思い浮かぶのは「虫プロ」「極真空手」「中核派」というような感じだ。しかし、池袋の開発プランを調べていくと、新しい魅力ある都市に生まれ変わりそうだ。

 まず、池袋駅の鉄道線路の上部に東西連絡通路が2本かけられる。これで「駅袋」と言われていた、駅がすべてを包み込むようにしているイメージからより開放的になる。ヤマダ電機やビッグカメラの先にある豊島区の庁舎は、南池袋に移転し、超高層ビルの建設が進んでいる。この庁舎移転は、区の税金を使わずに、PFI(Private Finance Initiative)方式で、庁舎の上部を分譲マンションとして販売し、その利益で区庁舎を建設する。分譲マンションの方は昨年「BrilliaTower 池袋」という名前で売り出されて、わずか7週間で全322戸が完売した。

 旧庁舎の跡地は定期借地として民間活用し、文化拠点が出来る予定だ。隣接した駐車場だったところに「WACCA」という下部が駐車場で、上部が結婚式などのセレモニー施設になり、その間に大きなキッチンスタジオを持つビルが本年に完成する。ヤマダ電機のところから旧庁舎を結び、東急ハンズ、サンシャインビル、更にその先の造幣局の跡地開発も含めて、東側の広大な商業集積地を、自動車を入れない歩行者天国にするというプランがあがっている。そこに、LRT(次世代路面電車)を走らせるという構想も進んでいる。

 このエリアには、アニメイトビルを中心とした、腐女子の聖地である乙女ロードがあり、サブカルチャーの中心の一つである。豊島区では、すでに何度かコスプレパレードをやったりして、人気を集めている。もともと日本アニメをスタートさせた手塚治虫の虫プロは西武池袋線の富士見台にあり、関係者は、池袋で打ち合わせをしたり、画材を買っていたりした。また、若い手塚治虫、赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄が住んでいた「ときわ荘」は豊島区南長崎にあった。

 昨年の秋には「池袋シネマチ祭」というのが行われ、池袋の映画館が連携して、アニメをテーマにした上映会やトークイベントなどが行われた。これらも行政が主体になって行われた。単なる建築構造物の開発プランだけではなく、地域に密着して育った文化を発展させていこうという意思を感じることが出来る。

 池袋は、老人の竹下通りと呼ばれる巣鴨も近い。サブカル文化、高齢化社会、エコロジー社会という、これからの時代の大きな3つのテーマを面として整備していこうという構想だろう。池袋の再開発は、デベロッパーが先導しているのではなく、行政が描いている。高野之夫・豊島区長は、以前は池袋芳林堂書店の上にあった古書店を経営していたので、文化的素養も関心も高い人なのである。

 都市を開発するのは、行政だったり、民間企業だったりするのだろう。ただ、それを利用し、街を愛するのは、地域住民であるということは忘れて欲しくはないものだ。戦後日本の成長は、生産者と消費者、サービス提供者と受益者との関係性の中で育まれてきたものだ。商品でもサービスでも、企画会議室の中でだけで決めて、一方的にシステム化することが多くなった。渋谷の地下駅や国立競技場の改修も、今となっては元に戻すことは容易ではないだろう。せめて、開発を進めている人たちに、問題点を自覚してもらい、次の仕事につなげて欲しいと思うばかりだ。

追伸(おまけ)
池袋の再開発の案件の中に「新しい文壇バー」を作ろうという企画があって、僕もかかわっています。かつて、銀座には文壇バーというのがあって、編集者と作家がくだをまく場所でした。今はない。新宿ゴールデン街も一時は、編集者と作家やライターとの企画会議の場だった。そう、出版の企画なんて、飲み屋の馬鹿話から生まれるものだったのだ!  会社の会議室でデータの用紙もって議論したって、血の通った本なんか出来るわけないさ。編集者と作家と読者の交流場所を作って、新たな出版企画が生まれて来るような空間を作りたい。

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