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死に関すること

この原稿は、1979年のロッキング・オンに連載していたものです。

橘川が29歳(笑)

音楽雑誌の中で、一人だけ、音楽に無関係なことを書いていた。

ロックは音楽の範囲を越えていくと思ったからです。

読んでくれたのは、高校生や大学生が中心。(この原稿読んだ、中学生の女の子から手紙もらったなあ)

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ROCKIN’ON 49号
1979年6月1日
メディアに関すること6
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2★死に関すること

  当然のことだが、個体が死ねば、肉体は、それぞれの元素に分解され、散る。それまで私と呼ばれていたものが、ひとつひとつのチリとなって世界に還っていく。

 私が死ねば、ある部分は土になり、やがて、あなたの前に茶わんとなって現われるだろう。

 ある部分は草に入りこみ牛に食われ、あなたの飲むミルクとなりあなたの血液となってあなたの肉体を駆けめぐるだろう。海にまかれたエンゲルスの灰は、プランクトンに入りこみ、魚が食らい、猫が食らいして、あなたの膝で眠っているだろう。

 個体が死んでも<私>は分解されこそすれ、消滅はしない。ぼくは別に知識としての輪廻を説明しようとしているのではない。

 いいか。想ってみろ! あなたが読んでいるこの雑誌の紙もインクも、実は数限りない多くの<私>の死の集積であることを。

 あなたのお気に入りの白磁器のデミタス・カップは<私>の死の残ガイであることを。そして、あなたの肉体が、数限りない多くの<私>の死の集積であることを。<私>はスプーンであり、ミルクであり、ケシゴムであり、切符であり、鎖であり、花であり、蟻であり、石ころである。

 意識とて同じことだ。個体が語るコトバの中には生が発生して以来の全情報が集積されている。あなたのコトバなんてない。あなたという限定的な時間を借りて<私>がしゃべっているのだ。

 自分は全体であり、全体は自分である。ここにいる私は、あなたの無限の可能性のひとつでしかなく、あなたもまた、私の可能性のひとつでしかない。あなたが言ったことは、私が言うはずのことであり、私が考えることは、あなたが考えるはずのことだ。

<私>は、考えられることだけを考えられ、考えられることしか考えられない。自分の考えを、単なる私でしかない自分のワクの中に閉じこめておく必要はない。

 情報は全体のものである。こうやって私が書いてる文章だって、意識的にしろ無意識的にしろ、無限の他者からの、つまり<私>からの借りものだ。だからこそ、自分一人のものではないという安心感もある。私が死ねば私の骨はあなたの血液の中に入りこむだろうが、意識は限られた生の時間の中でしか、世界に還すことはできない。コトバとは、だから一瞬一瞬の私という意識の死なのかもしれない。死は生。それを保証してくれるのは、読んでくれる、あなたしかいない。

 個人とは<私>の死によって構成されたボックスに流れこんだ<私>の生だ。あなたとは、たまさかあなたの中に流れこんだ情報の総量にすぎない。

 今ここに生きてる人の、一瞬一瞬の死が、まさに瞬間的に私の中に入ってくるようになったとき、私は<私>になる。それぞれの私が個別であることによって生じる対立がなくなる。だれもが<私>になる。情報を個人の所有物として引きとめたり弄ぶことはない。

 発信せよ。受信せよ。(同時に)

この原稿は「企画書」という単行本に入れました。

単行本に入れてない70年代のテキストがたくさんあるので、整理に協力してくれる人がいたら、橘川までご連絡ください。kit@demeken.co.jpです。


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