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東芝と家の崩壊

 日本の近代文学が、封建主義の呪縛から解放された個の喜びを全面に謳歌するものではなく、むしろ、冷徹な近代に圧迫されて、貧しくとも安らかだった時代の自分が、近代の文明と文化に切り裂かれていく様を描いたものだ、と、学生時代に夏目漱石や北村透谷を読んでいて感じた。

 日本は弥生時代の昔から、農耕をベースにした共同体コミュニティであり、「家」という意識が強く、個人は「家」の一員であった。封建的呪縛の強い田舎の村から逃げ出して都市に来ても、そこでは「第二のムラ」としての人工的な共同体である、「企業」や「宗教」や「イデオロギー」のコミュニティに参加することで、多くの人は「安らぎ」を得ていた。

 戦後、大多数の人が参加したのは「企業コミュニティ」である。そこは、擬似的なムラであり、藩主のような会長・社長がいて、名主や庄屋のような管理職がいて、多くの小作人がいた。家族で言えば、社長は、家長としての父親であり、絶対的な権力を持っていた。

 戦後に無数に登場した中小企業の親父さんは、フーテンの寅さんに出てくる「タコ社長」みたいに、おっちょこちょいだけど人情にあつかった。社員は、給料の安さに文句を言いながらも、親父である社長を信頼していた。社長も、いつもはワガママに振る舞ったが、会社の倒産の危機になれば、自分の財産を、あるいは身体を投げ打ってでも会社を守ろうとした。社員は家の子どもたちであったのだから。そういうことを知っていたから、社員も、わがままな親父を信頼してついてきたのだ。それは日本的な任侠の世界にも通じるものがあった。

 大企業も、もともとは中小企業からはじまっている。戦後社会とは、擬似的な村社会である戦後企業が、経営者も社員も一体となって、親子関係のように、みんなで「豊かさ」を求めた時代である。しかし、豊かさが蔓延することにより、企業は、コミュニティではなくなった。1997年に倒産した山一證券の野澤正平さんが、最後の「タコ社長」だろう。

 その後、多くの大企業が崩壊したけど、誰も、社員に申し訳ないと泣いた社長はいない。日産もシャープも、事務的な振る舞いで、日本の資産を外国に売り渡した。自分の資産を投げ打つどころか、最初に自分の財産は確保して、さっさと脱出しようとする。株主には申し訳ないと頭を下げるが、社員に対しては、冷徹にリストラを行った。東芝の崩壊劇でも、経営陣は誰一人として、社員の不安を気にかける様子はない。もはや、会社という家の幻想は崩壊しているのだろう。

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