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団塊問題・情報小料理屋 2016/06/18

 あるマンションの入居者の管理組合で、建前を振りかざす団塊世代の入居者に対して、個別の理屈で反論する30代の入居者との争いが勃発。こうした世代間闘争は、日本各地で起こっているのではないか。バスの中でのマナーが悪いと怒り出す団塊、店員の仕事態度がなっていないと怒り出す団塊。いやはや、困ったものだ。彼らは、一体何と戦って、何を守りたいのだ。

 団塊世代というのは、1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)生まれということだが、名付け親の堺屋太一さんによれば、学年で区切っているので、1950年2月生まれの僕も、団塊世代の一員ということになる。だから、団塊世代については、よく分かる。

 一般的に団塊世代というと、若い時にビートルズを聞いて、学生時代は反権力の学生運動に熱中し、社会正義にあふれていて、組織に反抗して、個性的な人が多いと言われている。そんなことはない。中学生時代に、学校でビートルズの話をした友だちはほとんどいなかったし、団塊世代の大半が学生運動に身を投じていたら、革命が成立していただろう。全体の量が多いから、少数のはみ出した奴も、他の世代から見れば多いということになる。大半は、決められたコースで進学し、サラリーマンになっていった。大半は個性的ではなく、組織的な人たちだ。同世代の数が多かったから、その中で勝ち抜く技術だけは強かったと思う。いろんな組織の中での指導者的立場になって、定年を迎えた。

 そうした普通の組織人的な団塊世代が会社の枠をはずれて、社会に流れてきたのだ。これが問題なのだと思う。バスの中でマナーを注意する団塊は、まるで会社の中で、世間知らずの新入社員を叱るような、教育的な責任感で叱っているのだろう。あちこちで問題になっているのは、団塊世代と若い世代との争いは、もう、役職のある組織の人間ではなく、一個人であるのに、相変わらず、組織の上司として、社会の個人に対して頭ごなしの教育的指導をしているからだと思う。自分の考えは正しいと狂信しているが、それは自分の考えではなく、社会(彼らにとっては会社)があらかじめ用意してある一般論でしかない。

 子どもの時から定年まで学校や会社という管理された組織人としての自分しか知らないで過ごして、定年で、生まれてはじめて組織から離れて「個人」になったのに、あまりに「個人」という感覚に慣れていないし、個人になろうともしない。今度は「社会」というものを組織のようにとらえ、社会の上司として、若者をしかり、社会的な問題にくってかかる。

 舛添さんの問題で、都庁に電凸した3万人というのは、統計は分からないが、団塊親父がメインではないかと想像している。会社の精算伝票をごまかした舛添さんを、許せないという気持ちがあっても、わざわざ電話して抗議するなんて、よほど暇人か、日頃の不満が蓄積されている人だろう。3万人の電話で、200万票あまりに選挙民の支持をひっくり返してしまった。これは怖いことだ。今後、舛添さんレベルのせこい不正が発覚したら、政治家は辞めなければならないという判例を作ってしまったようなものだ。法律や選挙とは違う形で、首長が決められるというのは、もう民主主義ではない。

 退陣が決まったら、今度は「謝り方が間違ってた」とテレビが言い出す。やくざかチンピラの言い分だ。社会秩序の掟や様式に逆らったら、それ自体がアウトという、とんでもないことを話してる。彼らは、どのような謝り方をしても、許しはしなかっただろうに。

 今回の事件で、都知事の月給が145万円だということを知った。これ、安すぎないか。ニッサンやソフトバンク並にしろとは言わないが、都の予算は年間13兆円、職員数16万人。この事業規模の企業のトップから比べたら、安すぎると思う。都知事の経費の使い方がセコイと批判する人は、都知事の精神性を望むだけではなく、そんなセコイことをしなくても済むだけの体制を提案すべきではないか。

 団塊世代は、まず、組織人としての自我から、一歩突き抜けて、本当の「個人」になるためのトレーニングをした方がよい。最近の若い連中は、「理屈で説明して、それを納得すれば、素直に従うが、理屈で納得出来なかったら、社長にでも食ってかかる」ということだ。これが「個人」というものだ。付和雷同的に、一般的な社会正義や、社会の当然のごとくの規範しか、自分の行動の原理を頼ることが出来ない組織人は、組織の中でしか生きていけないのだろう。団塊世代向け、個人意識養成講座が必要なのか。

 次回の都知事選の投票用紙には、舛添要一と書くことにしようか。

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