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未来の故郷へ(自民党でも民進党でもない道を)

 僕は、東京の新宿・四谷に生まれた。両親は墨田区や江東区で生まれ育って、戦争から帰ってきて四谷に住み着いた。そこは、江戸時代から続く江戸庶民文化の下町だった。日本橋の問屋に生まれ母方の祖母は、東京者の変なプライドがあり、地方出身者の仕草が東京のやり方と違っていると、「いやだねえ」としかめっ面をした。しかし、東京は、もともと、地方から流入した田舎者の町なのだが。

 戦後の新宿は、活気に満ちていた。戦後復興という人々の共通の目的があり、自分が豊かになるということは、家族が豊かになることであり、地域の人が豊かになることであり、国家が豊かになるのだということが、ストレートに信じられていた時代である。伊勢丹のある新宿は、戦後復興の豊かさの象徴であり、僕の家族も、ときどき、ハレの日には新宿に夕食を食べに行った。また新宿は戦後闇市が栄えたところである。闇市はさすがに僕も知らないが、「光は新宿より」というスローガンを掲げて関東尾津組の親分である尾津喜之助が尾津マーケットを作った。僕が小学生の頃、新宿には、今のディカウントショップのような価格破壊の店が二つあった。「チャーミングコーナー」と「栗橋プラザーズ」という店である。母親は、よくその店に買い物に行ったので、一緒に連れていかれた。尾津マーケットの解散のどさくさに出来たのが、新宿ゴールデン街だと言われている。小茶のおばちゃんが、尾津マーケットの話をしていたことは記憶にある。

 小学生の頃の新宿・四谷は、おそらく戦前の下町文化というものの延長線にあったのだと思う。路地裏遊びがあり、年長者が下の子どもたちを束ねて、グループを作って遊んでいた。それが壊されていくのは1960年前後である。自動車が増えて、車の通れない路地が壊され、テレビが家庭に入ることにより、小学校から帰ってきた子どもたちは、テレビの前に釘づけになり、外でみんなで遊ぶような文化は消えた。僕が小学校低学年の時は、高学年の番長みたいなリーダーがいたが、僕らは、ついに路地裏のリーダーにはならなかった。下の世代との付き合いがなくなったのだ。

 戦後の地域コミニティを壊した最大のものは病院出産だと思っている。このことはここ数十年間、何度も書いた。家族の最大のイベントである出産は、病院が普及するまでは家の中で行われていた。家で出産するためには、親戚や地域の人の協力が必要だから、日ごろから関係性を結んでおかないと、いざという時に手伝ってくれない。しかし、病院出産が当たり前のようになると、お金さえ払えば、安全に出産出来るようになった。そうなると、親戚や近所付き合いなど、本当は面倒くさいことばかりで、そのわずらわしさを押してまで関係性を作る必要がなくなり、血縁・地縁の関係性は、急速に崩壊していった。

 テレビと病院が日本の長い間に作られてきた家意識・地域意識を崩壊させたのだと思う。

 僕は、壊される以前の姿と、壊された以後の世界の端境期を生きた。両方、見たということは、それぞれのメリットとデメリットも見えるということだ。その意識が、僕の人生を決定した。

 東京に生まれた僕たちの何代目か前の世代は、封建的な日本り村意識が嫌で、都市に出てきた人たちだと思う。都市の中で、僕たちの祖父母や親は「第二のムラ」を作り出した。都市の機能さと、コミュニティとしての村意識との融合だろう。そして、そこから社会が急速に発展して、交通や病院や流通の社会システムが発展し、「第二のムラ」からも脱出して「個人生活」を楽しむようになった。婚姻が減ったのも、結婚しなくてよい社会システムが完成したからだろう。結婚による家庭も、ムラの延長には違いない。夫婦と子どもたちの、血族や地縁と切り離されたコミュニティは「第三のムラ」ということになるだろう。(ちなみに、「第二のムラ」という概念は、学生時代に読んだ、神島二郎さんの言葉である。)

 これが、僕らの現在である。今、社会的な課題になっている多くの問題は、戦後社会が作り出した、こうしたコミュニティの変化に問題の根があると思う。例えば「父親の育休」という問題も、核家族により、かつては両親・親戚・地域の共同作業であった出産・育児が、夫婦だけの問題になってしまったので、母親だけでは無理なのである。「介護」の問題も、昔のように三世代同居の家であれば、年寄が体調が悪くなったら、自然と家族が面倒見るものであった。しかし、今の老人介護の問題は、それまで核家族として夫婦子どもだけで生活していた環境の中に、突然、体調を崩した両親の面倒を見るということになるということだろう。生活のリズムも、自由も、まるで異なる環境が、突然やってくるのである。

 自民党の憲法改正法案のポイントは、戦後が生み出した個人主義的な「第三のムラ」意識を「第一のムラ」にまで引き戻そうとすることだろう。問題意識は分る。しかし、引き戻すことで、問題が解決するとは思えない。一時的に解決されように見えても、人類史の大きな流れを考えてみれば、また同じことが始まるのだ。旧民主党も、「子どもは社会の子」というようなロジックで、「第二のムラ」「第三のムラ」を国家的に支えるという発想だったのだと思う。

 僕は、どちらも違うと思っていた。僕らは、後退するのでも現状を固定化するのでもない。人類とはその先に進む民族なのだ。これまでのコミュニティの経験を踏まえた上で、まだ見えない「第四のムラ」を探していくべきなのだ。

 僕は戦後のコミュニティの崩壊の現場をまざまざと目撃した。しかし、10代後半の僕の目の前に現れたのは、メディアという新しい環境だった。そして、ロックという、新しい関係性のあり方だった。

 昨日、こういう原稿を書いたが、これは、単に、僕が人が好きで、メディアを通した人間関係を結ぶことに喜びを感じているということではない。1968年に僕が感じたのは、もはや帰るべき故郷はない。これからは、メディアの中に新しい人間関係とコミュニティを作っていかなければならない、という明確な自分の人生に対する方針を決めたのだ。地域の友だち、学校の友だち、職場の友だち、趣味の友だち、そういう友だちではない、自分の意志を表明し、その意思に共鳴してくれる「友だち」を作っていくことだった。メディアを通した関係性を作ることが、「第四のムラ」を明確化していくことだと、天啓のように思った。

 1982年に、林雄二郎さんが僕の事務所に来て、プライベートなレクチャーをしてくれた。その時に教えてもらったのは「ファンクショナル・コミュニティ」というものだ。ファンクション・キーを押すと成立するコミュニティ。これが、情報化社会の本質だと思った。

 コンセプト・バンクは、「第四のムラ」の具体的な作業を行っていきます。関心のある人は、まず僕の本を読んで(笑)それから手紙でもください。日本の政治も経済も生活も文化もすべて同一のものとして変えていきましょう。

▼戦後家族の問題は、こちらを参考にしてください。

森永エンゼル財団「森永エンゼルカレッジ」

戦後子ども文化研究 家族調査・子ども編 --子どもにとっての“家族”とは--


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