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カオスと無菌社会。都知事について、更に思う。

 昨晩は、古い友人の鈴木敏行さんが来て、Indigoでメシ。こちらは飲めなくなったので、ジンジャエール。鈴木さんは、僕がはじめての単行本「企画書」を1981年に出した時に読んでくれて、連絡をくれた。当時、赤坂のホテルニュージャパンで「SAS」という勉強会をやっていて、そこで講演を頼まれた。僕は31歳で、こ汚い格好をしていた。SASは、官僚や、大企業のサラリーマンがいろんな業界から集まって、いろんなテーマで会合を開いていた。鈴木さんは、鹿島建設の情報システム担当で、その後、日本で最初に「サテライトオフィス」という概念を導入して、埼玉の志木団地にサテライトオフィスを作った。彼のその後の活躍は、ビジネス進化という意味でも、大事な記録なので「本にしなよ」と言った。

 ホテルニュージャパンは、横井英樹氏のビルで、なんだか得体の知れない会社や組織の事務所がたくさん入っていた。SASもその中にあり、部屋には、官僚がはったのだろう「ニュージランドへの無料視察の枠があるから、行きたい人は連絡を」などと、いろんな内容のビラが掲示板にはられていた。やがて、ビルが大火になり、SASも引っ越したが、いつのまにか消えてしまった。

 80年代の初期、日本には、さまざまな異業種交流会があって、「ベンチャークラブ」という大きな勉強会があった。その会の事務局的なことをやっていた、前田真人さんも、僕の「企画書」を読んで講演会に呼んでくれた。ベンチャービジネスという言葉は国民金融公庫にいた清成忠男さんが、それまでの大企業の下請けの中小企業に変わる概念として、自立した中小企業として、ベンチャービジネスという言葉を作ったのだと思うが、その影響からスタートしたようだ。ちなみに、清成先生とは、80年代半ばに、一度、新宿の事務所にお伺いして、お話を伺ったことがあるが、素晴らしい人格と知見に圧倒された覚えがある。その後、法政大学の総長になった。

 ベンチャークラブは、日本各地に支部もあり、コンピュータ業界の胎動の時代だったので、IT関係者が多かったが、メンバーは多様だった。前田さんも、もともとは日本電気で信号システムや青果市場のセリシステムなどのソリューションを開発して、独立。会った頃は、勝又電気と一緒に、カツマタゼステックという会社を経営していた。彼のその後の活躍も、ビジネス進化の歴史であり、本にしろとすすめている。今は、渋谷で、専門的なIT技術者の派遣ビジネスをやっているが、新しいものを作り出したい意欲は衰えていなくて、面白いビジネスをいつも考えて開発している。

 鈴木さんと前田さんは、「企画書」を出すことで出会い、切れ目なく、生涯の友となった。異業種交流会には、もうひとつ大きなものがあり、それが梅棹忠夫さんの薫陶を得た人たちがやっていた「知的生産の技術研究会」で、いまでも活動している。ここにも「企画書」が縁で、講演に呼ばれて出会ったのが、久恒啓一さんだ。彼とは、その後の付き合いはなかったのだが、2年前、福岡空港の飲食店でラーメンを食べていたら、隣に久恒さんがいて、声かけられて、30数年振りに再会。意気投合して、久恒さんが副学長している多摩大学に推薦されて客員教授に。今は、一緒に、いろんなプロジェクトを推進している。

 80年代半ばのバブル以前は、単行本を出すと、講演会に呼ばれることが多かった。日本には、さまざまな異業種交流会が盛んであり、そこに集まっていたのは、やけに威勢がよく実務力にも長けたエリートサラリーマンたちであった。また、電気通信総合研究所(電総研)のように、当時の電電公社の関連企業から人材が集まって、これからの通信社会の研究をしていた組織もあった。住友電工から出向していた鈴木ジャンボもいたし、席の隣には、その後、日経BPに行き、現在は静岡大学に行った、赤尾晃一さんがいた。電総研は、その後、電電公社の民営化とともに、情報通信総合研究所になり、NTTの研究機関になった。すでに、異業種からの出向という体制ではないだろう。初期の情総研には、よく呼ばれて一緒に仕事したが、電総研の匂いが薄れていくにつれて疎遠になった。

 80年代のバブルは、すべてが不動産と金融に結実するという資本主義のコントロール不可能な暴走だが、そのことによって、一時的な富を得たものもいたが、日本社会は大事なものを失ったような気がする。バブル以前のサラリーマンの勉強会は、異質なものが集まり、下町の長屋的なドタバタ劇を引き起こしながら、相互が成長していくカオスのようなコミュニティだった。今も、さまざまな勉強会や、コミュニティがあるが、そこには、いつも「同質性」を感じる。同じ業界、同じ趣味、同じライフスタイルなどの人たちが集まるサロンである。ネットワークのフィルター機能が、人を分類していく。

 ネット社会は、つまらないことでもすぐに炎上するが、リアルな現実では、議論もなくコミュニケーションもなく、いきなり殺傷沙汰になってしまったりする。リアルな場での、明るいカオスが必要なのだ。同質なものをいくら集めても、同質の延長線のものしか生まれない。カオスの中から、本当の新しい生命が生まれるのだ。

 10年前まで活動していた、ソフト化経済センターが、最後のカオス的組織だろう。ここには、サントリーや日本航空や黒猫ヤマトや日販やスカイラークの若手社員が出向していて日本の未来を共同して描いていた。僕は、あまり関わっていないが、デメ研の亀田くんが積極的にかかわって、人脈を広げてきた。

 80年代バブルが壊したものは何か、と考えている。それは、戦後の焼け跡から出発して、まさにカオスの中からスタートして整備された都市を、さらに次の段階に引き上げてブラッシュアップしようということだろう。カオスが潰されていった。バブル時代の地上げ屋さんが、争って参入した「新宿ゴールデン街」は、まさにカオスの象徴であった。ゴールデン街を地上げ出来れば、不動産業界の勲章になる、と、ある地上げ屋さんは言っていた。

 都市も、企業組織も、流通も、メディアも、地域コミュニティも、整理され、見える化され、曖昧なもの無駄なものは排除されていった。バブルの時代に、サンシャインビルの西洋環境開発のオフィスに堤清二さんが外国からの客を迎えていた。超高層のビルから見渡す東京の夜景は、戦後復活の栄光として、堤さんは誇らしかったのであろう。しかし、客の白人ビジネスマンからすると、何の計画性もない無秩序なアジアの雑踏にしか思えなかったようだ。

 バブル崩壊以後も、日本社会は、狂ったようにカオスを潰して、システム合理化し、人工的な都市に作り変えようとしている。違うだろう、と思う。サラリーマンよ、違うだろう、と言いたい。

 都知事選のドタバタ劇を見ていて、「不寛容な時代」の恐怖を感じる。今の日本は、カオスを潰し、異質なものを排除する無菌社会になりつつある。政治家とは、まず、政治の手腕が問われるべきであって、それが市民のためになることをやってくくれば、性格破綻していようが、ドケチであろうが、問題ない。さまざまな困難に立ち向かうためには、政治家そのものがカオスでなければならないのだ。しかし、無菌化社会においては、「何をしたか」がまるで問われることなく、「誰がやってるか」という政治家個人の方にまで視線がいく。そうであるなら、やがて政治は、ディープラーニングのロボットが担うことになる。人の人格を攻撃出来るほど、僕は自らの人格の清廉さに自信を持てない。

 猪瀬さんは、バブル時代以前に、猪瀬さんの事務所にいた女の子が僕の事務所に入ったこともあり、面識はある。舛添さんとは面識ないが、スタッフの一人が僕らと定期的に情報交換してきた男なので、頑張って欲しかった。ふたりとも、外から見てても、官僚化した行政組織に突撃していった勇者だ。それだけ、官僚組織からは、煙たがられたのだろう。二人は、メディアと大衆に潰されたが、背景にあるのは、官僚組織だと思う。泣いたのは舛添さんだが、誰が笑っているのか考えてみよ。怒って都庁に電話した爺さんではないだろう。

 右傾化や左翼化の危険は、大衆のバランス感覚で、対応出来ると信じているが、無菌化していく社会の流れは、とても不安だ。子どもたちの生きる力を奪い、システムが破綻したら絶滅する危機も感じる。

 カオスを創ること、カオス的コミュニティを創出することが、今は、とても大事な気がしている。その危機感から、コンセプト・バンクを作った。まず、関心を持ってくれた方は、CBフレンズのメルマガ登録をどうぞ。具体的な活動を報告します。カオスに飛び込んできてくれ(笑)


▼橘川の都知事問題まとめ

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