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追悼・内田裕也

(1)70年の日記から

以下は、僕が20歳の時の日記に書いたものである。
僕は19歳の頃から寝る前にnoteを書いていた。日記というより思考メモで、
今のnoteとあまり変わらない。大学ノートに書いたものが30冊程度残っている。デジタルの時代だったら消えていただろう。紙のnoteは、引っ越しのたびに持ってきていた。

1970年9月6日
◇日比谷野音でロックフェス。ニュータックスマンの演奏と蝉の泣き声が一致していた。頭脳警察の演奏中、俄雨。観客はステージの上へ逃げる。頭脳警察の周りを囲んで演奏。全学連大会でもないであろうよ。
◇ヘタなグループに対しては平気にヤジが飛び、カエレカエレのシュプレヒコール。ex.グループ0、ブレッド&バター。
◇ブラインドバード、M、フラワートラベリングバンドはグンのバツ。

◇反戦高協だと思うが、安保粉砕・闘争勝利のシュプレをやった。内田裕也が「しばらく全学連の皆さんのシュプレヒコールを聴いて下さい」なんてやっていたが、この連中が終始、裸になったり踊ったりしてハネていた。

▼100円コンサートのチケット。(日記にはってあった)

 1970年当時の日比谷野外音楽堂は、学生運動の集会とロックコンサートが行われていた。他にもいろいろ使われていたと思うが、僕は、このどちらにも参加していたし、高校生の時は、夏休みなどは野音の隣の日比谷図書館によく来ていたので、なじみの空間である。

 野音のロックコンサートは100円コンサートで、ほとんどフリーに近いものであった。スポンサーがいたようだが、やりたいやつがやる、という感じであった。やがて99円コンサートになったが、それは100円以上だと税金が発生するという理由だという情報が流れきた。

 ステージと観客が一体になった野音のライブは、今のようにマナー厳守を徹底させる大型フェスやライブハウスの状況とはまるで違っていた。気に入った音楽が流れると観客も全力で叫び踊った。しかし、気に入らない音楽だと、平気でブーイングをはじめる。五輪真弓が登場すると、観客の大半が「カエレ! カエレ!」と帰れコールを合唱する。しかし、それにメゲズに歌いきった五輪真弓はたいしたものである。

 野音のコンサートの情報は、70年から71年にかけて存在していた新宿のソウルーイートというロック喫茶にチラシが置いてあったので、予定が組めた。僕は、このロック喫茶の客であり、DJブースにいたのが、当時は浪人生だった渋谷陽一である。(このへんの事情については拙著「ロッキング・オンの時代」を参照)

 もうひとつメディアがあって「読書新聞」という書評新聞だ。この新聞は、新刊書籍の書評新聞だったが、澁澤龍彦のインタビューとか、フランス構造主義の解説とか、寺山修司と唐十郎の争いとか、時代の最先端の情報を知れるものだった。映画や演劇やデモやライブの情報も、掲載されていた。

 大手の新聞社の新聞をブルジョア新聞(ブル新)と呼んでバカにして、こういう書評新聞で時代の流れを掴んでいた。しかし、僕は、そのブル新の毎日新聞社の本社で「坊や」というバイトをしていて、そこには、早稲田の反戦連合をはじめとして各大学の学生運動やってる連中が一緒に仕事していたのだが。

 「読書新聞」はかなり過激で、もうすこしおだやかな書評新聞に「読書人」というのがあり、こちらも時々、読んでいた。そこに漫画主義というグループによる真崎・守と宮谷一彦の批判が掲載され、怒った僕は反論の投稿をして掲載され、それを子ども調査研究所の髙山英夫所長に認められて声がかかり、僕のメディア人生がはじまった。時代の書評新聞は、今の時代にこそ必要なのかも知れないと思う。

 そういう時代背景の中でロックェスをはじまったのだ。アメリカでウッドストックが話題になり、イージーライダーがヒットし、ロック的な雰囲気が醸造されていた時に、内田裕也は、フリーコンサートというライブ空間を創出したのである。

(2)裕也さんの死

 内田裕也さんが2019年3月17日に79歳で亡くなった。ということは、日比谷野音の100円コンサートを仕掛けた時は、裕也さんは30歳の頃か。若きキーヤン(木村英揮さん)と一緒にライブフェスを仕掛けたのだと思う。キーヤンは、京大西部講堂のライブを仕切り、村八分のプロデューサーをやり、フランク・ザッパを来日させ、それはやがてフジロックになっていく。還暦になった時に突然、画家宣言をして、京都中にロック的な壁画を書きまくっている。二人は、時代の同志だったのだと思う。

 裕也さんとは直接の面識はありませんでしたが、ロッキング・オンの創刊仲間である大久保青志が70年代に内田さんのマネージャーをやっていたので各種武勇伝はよく聞いた。大久保のギャラは、樹木希林さんが払ってくれていた。(しかし大久保は、裕也さんのマネージャーになり、その後、土井たか子の秘書になり、今は、保坂展人世田谷区長のブレーンをやっている。それほどキレるという感じはしないが(笑)人柄の良さで大物に気に入られるのかも)

 裕也さんは、ミュージシャンというより仕掛け人として時代感覚を掴んでいた人だと思う。タイガースは最初「内田裕也とタイガース」だった。ちなみに、京都から出できた沢田研二たちは、最初、四谷の僕の家の近所のアパートで合宿していた。「君の名は」の聖地になった須賀神社の先のところだ。僕が高校生の頃だが、道を歩いていると、僕に向かって女子高生の集団が僕に向かって突進してくる。なんのことか、と思ったら集団は僕を通り過ぎて、振り向くと、タイガースがいた。

 ナベプロが沢田研二を歌謡曲歌手として大成させようとしたところを、ロックの世界に引き釣り出したのは裕也さんだろう。1971年の日比谷野音に沢田研二と萩原健一の二人のダブルボーカルのPYGというバンドが登場して、僕も行った。そういう仕掛けが出来るのは、裕也さんしかいないだろう。

 その後、 内田裕也とフラワーズの麻生レミや、ジョー山中など、記憶に残るボーカリストをプロデュースした。麻生レミは、日本のジャニスジョプリンと呼ばれ、四谷三丁目の古いスナックのジュークボックスになぜか、フラワーズのアルバムがあって、よく聴いていた。麻生レミの切ないシャウトは、今でも覚えている。

 年末に、紅白歌合戦に対抗して、浅草などでロックフェスをやっていたが、その後の、フェスブームの黎明期の歴史的輝きだと思う。

 才能ある人材を見つけ世の中に登場させ、客と一体化するライブフェスを実現させた。なんか、よく考えると、僕が「未来フェス」でやろうとしていることと同じです(笑)

 謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。


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