ファイル_2016-12-13_8_19_48

欅坂46「紅白歌合戦2017」

(1)2017年・紅白歌合戦「不協和音」

 大晦日の紅白歌合戦は、後半開始の欅坂46だけを見た。2017年、さまざまなドラマがあった欅坂だが、紅白の「不協和音」一曲に、すべての想いをメンバー全員が叩きつけることが分かっていたから。イントロの平手が拳を突きつけるところから、その迫力は、尋常ではなかった。メンバー全員の動きが、筋力や体力とは異質な力で突き動かされている。しーちゃん(佐藤詩織)が言っているように、「不協和音」は自分の感情をぶつけられる曲なのだ。一人ひとりの1年間の想いや葛藤を、一瞬のうちに叩きつける。これこそ、大晦日のイベントに最適なパフォーマンスではないか。

 出来ることなら、茶の間でカメラワークをコントロールして、一人ひとりの表情を見てみたいと思った。人は形式の中で生きていかざるを得ないが、その形式を突破しようとするエネルギーを、誰もが内在している。内在していながら、人は、それを押し殺したまま生きている。形式を本気で突破しようとする時、形式は敵ではなく、強い味方になる。それが、本当の表現だと思う。形式に支配されるか、形式と格闘することにより、新しい形式を生み出すことが出来るかが、偽物と本物の違いである。欅坂46と、そのスタッフは、確実に、アイドル歌謡曲の新しい形式を創り出している。

 「不協和音」は、1周した「サイレントマジョリティ」である。作詞・秋元康、作曲・バグベアの作る曲が、欅坂46の本流である。欅坂46には名曲がたくさんあるが、この本流があってこその豊かな支流である。サイマジョと、不協和音の、動画を聴き比べてみればその間に少女たちが何を体験し、何を見て、何を感じたかが分かる。デビュー曲がサイマジョでなければ、僕も、その後を追いかけることもなかっただろう。「不協和音」が「サイマジョセカンド」であることを知っている平手は、紅白でも、最後のところで、サイマジョと同じように不気味な笑顔を見せた。それは決して、これまでのアイドルのコビた笑顔とは質が違って、挑発的ですらある。平手自身がサイマジョからスタートすることになった喜びと悲しみを実感しているのだろう。

 人は成長する。成長のスピードが早ければ早いほど、ロックを感じる。成長は、シナリオ通りに肥大していくことではない、身を削って、予定調和の速度を越えて、前のめりに生きていくことだ。人の100倍、1000倍の精神的体験を背負うことによって、普通の速度を生きる人間に感銘を与えられる。表現の感動とは、表現者の考えたり悩んだりした時間の密度と分量によって伝えられるものなのだ。単なる素質に満足していては、形式を越えられない。「生命を削る」ことが、本当に生きるということなのだ。

 ロックの方法論を知っているだろうスタッフは、欅坂46に過酷とも思われるレッスンと課題を突きつける。欅坂46という運動体のセンターに位置する平手友梨奈には、14歳、15歳、16歳という、人生の一番、流動的な状態の精神に、次から次へとテーマを与える。ラジオのレギュラーを与えたのも平手が最初である。アイドルの世界の旧時代である昭和歌謡の曲調である「山手線」や「渋谷からPARCOが消えた日」を歌わせたのは、何かの意図を感じる。「山手線」は名曲だと思うが、アルバムからはずされたのは、この曲は、平手を成長させるための噛ませ犬だったのだろうか。2016年の年末には、ゴスペルズと共演させ、2017年の年末には、平井堅と共演させる。ゴスペルズや平井堅は、日本エンターティメントの世界では、本物の部類の人たちだろう。ある種のエリート教育を課していることが想像出来るし、それだけの期待もあるのだろう。

 ビートルズも、リバプールでデビューしたあと、ギャラにつられて行ったドイツのハンブルグ時代に、言葉が通じないアウェーのライブハウスで、連続8時間のステージをこなしたことで、アレンジ力やステージ・パフォーマンスが鍛えられたと言われている。まさに、才能は、若い時の「Hard day's night」で鍛えられる。2017年の欅坂の夏は、そういう時期だったのだろう。

 デビュー当時の平手は、不安に怯えているだけの子羊であったが、2016年のクリスマスライブや紅白歌合戦を経て、周辺からの期待をこなしていく表現に限界を感じた。内部の表現衝動が、外部からの期待をぶちやぶる瞬間があった。子羊が孤狼に変わった瞬間である。平手が自発的に、自らの表現活動を模索しはじめたのである。平手が、本当の意味でのセンターになった。

 欅坂46の他のメンバーは困惑しただろう。平手の存在感を認めるメンバーは、平手と一緒に進むことを選択するか、平手の存在を認めつつ、自分なりの個性を追求していく道を選んだのだろう。今泉佑唯以外は。

 今泉佑唯(ずーみん)は、もともと、SONYの秘蔵っ子として育成し、欅坂46に参加したと言われている。いわばアイドルの本道であり、活動経験も豊富だ。欅坂初期のラジオ番組や動画では、子羊の平手を、リードし、鍛えている先輩ずーみんの、微笑ましい風景が残っている。しかし、平手が孤狼に変貌し、独自の形式を模索しはじめた頃から、路線の違和感を感じるようになったのだろう。原因不明の病で、戦線離脱をする。ずーみんも相当、苦しんだのだろう、復帰した時は、以前のほんわかした雰囲気が消えていた。幕張で復帰した時は、メンバーも観客も泣いて歓迎したが、年末に再び、離脱してしまった。他のメンバーと違って、ずーみんだけは、自分なりの確固としたアイドル像があり、方向性もあったので、アイドル路線としては異質な平手欅坂は納得出来なかったのだろう。

 今回の離脱は、原因不明ではなく、彼女自身が、平手中心の欅坂46に疑問を投げて、自分の居場所がないということを表明してのものなので、再復帰は難しいかも知れない。スタッフも、今泉のために「再生する細胞」という曲を用意したが、平手の流れは、すでに大きな動きになっていた。(おっと、ずーみんは、1月の握手会に登場のようだ。武道館にも参加してくれるのだろうか。ずーみんの欅全体の中でのポジションは確実にあるのだから、頑張って欲しい)

(2)2回目の不協和音

 紅白では、内村光良との2回目の「不協和音」は、壮絶なステージになった。平手は、呼吸が荒く、うっちゃんに心配されるほど衰弱していて、すずもんやピッピも、倒れた。「不協和音」のMVのメーキング映像を見てたものは分かるが、映像を撮り終えた瞬間、平手をはじめとして、崩れ落ちた。TAKAHIROが、1段階上のダンス技術を用意し、それぞれが個人の感情を個別に発揮してよいことを示唆したのだ。

 夏の過酷なツァーや、ロッキングオンフェスのハードなセトリをこなした体力があるのだから、1曲で倒れるのはおかしいだろうという見方もあるだろうが、フェスの全曲分のエネルギーを一曲にぶちこんだのだと思う。だいたい、一回目の「ああ、まさか、自由はいけないことか」で倒れる時に、てちの頭がステージにごちんと激突している音が茶の間にも聞こえてきた。ブレーキが効かない状態でアクセルを踏んだ疾走だったのだろう。

 しかし、この3人も倒れる事故について、スタッフは何も触れず、舞台終了後に全員が笑顔で映る写真を公開しただけである。メンバーのブログについても、誰も何一つ、触れていないようだ。菅井がキャプテンとして、謝っただけだ。どうやら、箝口令がひかれているようで、おかしいだろう。みんな元気に回復したなら、笑って語ればよいではないか。それも成長のための事実の一つなのだから。

ここから先は

941字 / 2画像
この記事のみ ¥ 100

橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4