LGBTQのQって

QはQueerのQだ。
Queer、クィアっていう言葉は日本人にはまず馴染みが無い。おそらく学校の英語の授業では習わない単語だろうし、入試問題にも出ないだろう。
僕が知っていたのはこの曲のおかげだ。

"Her friend is doing time for kickin' ass on a queer"
「彼女の友達はオカマを殴ってムショ暮らし」と訳されていた。
なるほどオカマの事をクィアって言うのか・・・と思っていた。むしろそっちよりもdoing timeってのが刑務所暮らしを意味するって方が興味深かった。

時は流れ、クィアという単語がこれほどメジャーになる日が来るとは。

LGBTQ差別を禁止する法案が話題になっている。この法案の問題点については大勢の方々が声を上げているかと思うのでここには記さないが、ひとつだけ気になっているのは歌舞伎や宝塚歌劇団などを例に「日本は昔から多様性に寛容だ」という主張をする方が相当数いる事で、それとこれとでは話の次元が違うだろうと僕は思っている。
それこそスキッド・ロウがデビューした頃の日本において、一般人レベルでレズだゲイだと公言する人もいなければそれを容認する社会も存在しなかったのではないだろうか。
ただキリスト教国家のような宗教的禁忌が無かった故に芸能の世界では容認されていたのだろうし、一般人もテレビの世界の事としては受け入れていたのだろうと思う。
現実社会においてはゲイ?ああホモのこと?オカマ?気持ち悪~という程度の認識だったのではないだろうか。
僕自身がまだ洟垂れ小僧だったので分からなかった、知らなかっただけなのかもしれないけどね。当時はピチピチのレザーパンツ&ジャケットに身を包んだロックスターにただただシビれていたわけだが、今思えばあああの人はそっち系の人だったんだなぁ・・・と思う所はある。
だが別にその人の性的志向がどうであれ自由でいいし、好きにしたらいいと思うし好きにさせてくれと思っているだろう。
僕が敬愛して止まないフレディ・マーキュリーは人種的にも性的にもマイノリティだった訳だが、生前の彼が(奇抜過ぎる衣装は抜きに)それを特段主張することは無かったし、こちらもそんな事は抜きに彼の歌に、パフォーマンスに熱狂した。
それが今はどうだ。性的マイノリティを名乗る事がファッションになり、飯のタネになってしまっているではないか。そしてさらに国家の根幹を揺るがしかねない事態へと発展している。

そもそもLGBとTやQは切り離して考えなければいけないというところからの話なのだが、それもここでは語らない。

未だに足抜け出来ない高校PTA絡みのお役目でたまに教育委員会関係の会議に呼ばれるのだが、先日送られてきた会議資料の中に「パートナーシップ宣誓制度」とやらのチラシが入っていた。
ほお県知事が左巻きだとこういう事には熱心だねぇ・・・とチラシを眺めていたら「LGBTQのQはQuestioning」とか書いてあるじゃないか。
考え中、か。
調べたらそういう解釈も元々(?)あるそうで。クィアの本場(??)アメリカでも、クィアという言葉自体がクエスチョニング的な、何でもあり的な意味合いで使われているとBlahさんも言っていた。
それはさておき上手い言い換えだなぁ・・・と深く感心し、深く戦慄した。
クィアって何?と調べればおかま、変態だよ。
クエスチョニングの方がそれこそ秋の空のように移ろいやすいティーンエイジャーの心にずっとずっと、刺さりやすいだろう。
そういうふわふわした言葉で、ふわふわした子供たちを搦め取って行くわけだ。
物わかりのいい大人のふりをして若者を喰い物にする連中と、尻馬に乗って分かったような口を利く自称意識高い系の連中にはほんと、反吐が出る。
過激な思想をお持ちな方々のやり方は、いつもそうだ。

この問題で犠牲になるのは、日本の将来を担う若者たちなんだよ。
大人が責任を持って、阻止しないといけないんだよ。

全然関係ないけど、QueerとQueenって一文字しか違わないんだな。
Queenって単語にもまぁ、そういう意味もあるし。
僕自身は全身全霊どストレートを「自認」しているけど、もしフレディに「今夜僕の部屋においでよ・・・」なんて耳元で囁かれたら到底拒めないし、拒まないよ。
そういうレベルに留めておくべき話なんだと、僕は思っている。

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