デレマスSS「向井拓海と、帰り道」

「いやー、さっすがに夜になると寒ぃなあ」

 隣を歩く拓海がそう言うのに対して、俺は「そうだな」と消え入りそうな声で答えた。
 打ち上げの間もほとんど喋らずに酒ばかりを飲み込んでいた俺の喉は、自分でも正しく発音できていたか不安になるくらいに掠れた声しか出てこない。
 それでも俺のすぐ隣の拓海には聞こえたらしく、彼女はニコッと口角を釣り上げて笑った。

「ライブん時は、あれだけ暑かったのにな!」

 今日は、俺のプロデュースするアイドルである向井拓海……そして彼女の所属するユニット・炎陣の出演するライブが開催された日だった。
 何も単独ライブというわけではな。「シンデレラガールズ」と呼ばれる、次世代のニューアイドルたちを集めて行われたライブだ。
 シンデレラガールズのイベント自体もう7年は行われている息の長いものだったのだが、その長い歴史の中でも今回行われたライブは初のドーム開催。
 今回のライブは、埼玉県所沢市にある、プロ野球ファンにとっては馴染みの深い猫屋敷で行われた。
 果たしてドーム開催でどう転ぶものか、と最初に告知を打った時のスタッフたちは戦々恐々としていたものだった。だが蓋を開けてみれば見事満員御礼で、たくさんのファンたちが全国から詰め掛けてくれた。
 大成功だった、と言っていい。

 そしてそのイベントの成功を祝して、炎陣メンバーと、プロデューサーである俺というメンツで先ほどまで打ち上げをしていたのだった。

 向井拓海は、元暴走族の特攻隊長だった。
 現役の特攻隊長だった彼女を、俺がプロデューサーとしてライブに立てるくらいの立派なアイドルに仕立て上げた。
 今思うと、スカウトした当時はかなり無茶をしたものだと思う。なにせ暴走族の頭をアイドルとして引き抜くのだ、当然のことながら本人からも反発されたし、周りの理解もなかった。暴走族側からも、会社側からも。
 けれど今こうして拓海はアイドルとしての道を往き、そして笑っている。

 炎陣は、「かっこよさ」に重きを置いたアイドルグループだ。
 元特攻隊長の拓海をリーダーに据え、元ガテン系の藤本里奈に、ロックなアイドルの木村夏樹、バンドのボーカルから引き抜いてきた松永涼に、サバゲーが趣味のミリオタである大和亜季。
 愛想を振りまくようなタイプではない。
 声を枯らして叫び続け、腕をいっぱいに振り上げて観衆を煽り立てる。そんな、泥臭いユニットだ。

 だが、他のどのユニットよりもかっこいいアイドルたちだ。

 今日のライブでも、彼女たちのユニット曲である「純情Midnight伝説」を絶唱し会場を熱狂の渦に叩き込んでいる。それも、一番ライブの盛り上がる、トリ近くの出番を任されていた。大快挙といってもいい。
 俺も今日、控え室でよその事務所のプロデューサーさんから褒められた。「いいユニットですね」と。

 出番終わりに楽屋まで冷やかしに行くと、ライブの大成功に気を良くしたメンバー5人から一斉に抱きつかれた。
 炎陣の5人の積み上げてきた大成功だと俺は思っていたけれど、彼女たちにとっては、プロデューサーの俺も含めた6人での大成功だったらしい。
 お前らなあ……、と俺は年甲斐もなく目頭が熱くなって、天井を見上げていた。視線の先にある楽屋の天井は明るくて、感傷的な俺の目に沁みた。

 炎陣と俺、6人で向かった打ち上げは焼肉を所望された。
 拓海は「生牡蠣と焼肉を食べたい!」と言ってきたのだけれど、さすがに生牡蠣と焼肉を同時に満たせるお店なんて心当たりがない。
 というわけで肉の方を優先して、たまたま6人で入れそうな焼肉屋で打ち上げをした。拓海は「生牡蠣が無いんだけど?」と不満そうではあったが。
 ところでこいつらはうっかりアイドルだということを忘れてしまうくらい、食欲旺盛である。
 それでも俺はプロデューサーだし、男としての見栄もある。それに何より、俺をプロデューサーとしての高みに連れてきてくれたのは、こいつらだ。
 給料日前の苦しい時期ではあったが、俺は思う存分笑って肉をかっこむ彼女たちの様子を見ているうちにどうでもよくなっていた。
 亜季を除いて未成年のユニットだから、あいつらの分の酒は勘定に入れずに済んだのは助かった……とだけ書いておこうと思う。

 そして夜も遅くなってきたところで焼肉屋を出て、解散の流れになった。

 俺は会社の営業用の社用車を取りに、そして拓海は愛用のバイクを取りに行くために駐車場へと向かっていた。
 他の4人もまたそれぞれ原付やバイクに乗ってきてはいたのだが、停めていた駐車場が違ったので、店の前で別れている。

 ライブ前はあれだけ喧騒に包まれていたこの街も、夜更けになった今は静まり返っていた。
 会場内に集まっていたお客さんや関係者、スタッフの方々はもうとっくに撤収しているのだろう。
 この広い街の中で、この夜道を歩いているのは俺と拓海だけなんじゃないだろうかと錯覚するくらいだった。

 アスファルトの硬い地面をこする靴音が、2人分響いている。
 俺と拓海が、並んで歩いていた。等間隔に並ぶ電柱以外に、目新しいものも特に無い。
 あれだけの観衆の前で明るいスポットライトに照らされていた拓海も、今は俺というたった1人の隣を、弱々しい街灯の光で照らされながら歩いている。

 拓海は、ほうっと息をついてから俺に向かって話しかけてきた。

「終わっちまったなあ」

 ライブのことを言ってるんだな、とすぐに気がつく。
 あれだけの熱量のあったライブの後だ。気持ちがすぐには戻らないことは、理解できていた。

「次はライブ、いつになるんだよ?」
「さあ……。でもまあ、シンデレラガールズのイベントだったら、またそう遠くないうちにあるんじゃないか」
「つーかさ、次はよ、炎陣だけで単独ライブやろうぜ。アタシらだけでドームを埋め尽くして、『純情Midnight伝説』歌うんだよ」
「ドームいっぱいにして、持ち歌1曲だけは辛いものがあるなあ……」
「バラードバージョンとか、ラップバージョンとか作ればいいじゃん」
「なんでバージョン違いばっか作って、新曲って発想が出てこないんだよ」
「でもバージョン違いって、けっこうアツくならねえか?」
「まあ、気持ちはわかるけどなあ」
「だろぉ? だからさ、ボサノヴァバージョンとかもさ、いっちょ作ってくれよプロデューサー!」

 そう言って拓海に背中をバシッと叩かれた時、ドキッと心臓が派手に鼓動を刻んだのがわかった。

「……ん? どうした、プロデューサー?」

 反応がなかったことにいぶかしんだのか、拓海が間近から顔を覗き込んでくる。
 俺は「なんでもないよ」と、顔の前で手をひらひらと振ってみせる。

 いや。
 俺は、嘘をついた。

 本当は、なんでもないってことはない。

 今日のライブを、俺は関係者席から見つめていた。
 本当は担当プロデューサーの1人に過ぎない身で関係者席なんて使っていいもんじゃないんだけれど、今回はたまたまスケジュールの都合が合わずに空席が生じていた。
 そのため若手のプロデューサーである俺に、「これも勉強だから」「自分の担当アイドルの初ドーム、いいとこで見とけ」と先輩たちから気を使ってもらって席をまわしてもらったわけだ。

 いつもライブは、舞台袖から見ていた。
 真横から彼女たちに無言のエールを送り、そのパフォーマンスを見届けていた。

 だから、知らなかったのだ。
 観客席から、真正面から向き合った彼女たちが、どれほど光り輝いていたのかを。

 強烈なスポットライトを浴び、大音量の伴奏に合わせて炎陣の5人が歌う。
 もはや歌と一言で片付けていいものではなかった。
 あれは、魂の叫びだった。
 アイドルの道を進むことを決め、そしてここまでやってきたのだと証明するための叫びだった。
 ドームという場所に己の存在証明を刻み込むべく、全身全霊をもって全てを叩きつける。
 5人の熱量に応えるべく、観客たちも声を張り上げてコールを返し、サイリウムを振り上げていた。

 そしてその中心に。
 炎陣のど真ん中に。
 ステージのど真ん中に。
 熱狂するファンたちの視線のど真ん中に。
 ……俺の、目の前に。

 向井拓海が、立っていた。

 拓海は誰よりも高らかに声を上げて歌っていた。
 そして誰よりも大きな振りで腕を上げ、足を蹴り上げ、全身で彼女の歌を表現していた。
 アイドルなんて興味ねえなんて言って一笑に付していた、出会ったばかりの頃の拓海の姿がフラッシュバックする。
 ガラにもねえなんて言ってひらひら付きのドレスを嫌がり、恥ずかしがっていた拓海の姿がフラッシュバックする。

 そんな彼女の進んできた道の先が、ここだった。
 かっこよさを体現したように、”アイドル”として光り輝く拓海がそこには立っていた。
 ヤンキーとして生きてきて、暴走街道まっしぐらだった特攻隊長は、その信念を曲げることなく貫き通して、彼女らしいかっこいいアイドルとしての姿にたどり着いたのだった。

 そして、ああ。

 俺は、気づいてしまった。

 拓海を見る。
 まっすぐに見る。
 ステージ上で観衆を盛り上げ、視線を一身に浴びる拓海を見る。

 好きだ。

 そう、唐突に気づいた。
 気づいてしまった。

 勝気に釣り上がる眼が好きだ。
 長くてまっすぐな睫毛が好きだ。
 ちょん、と顔の真ん中に可愛らしく載っかる鼻が好きだ。
 感情表現豊かで、大きく開けて笑う口が好きだ。
 広いおでこが好きだ。
 色艶の良い、長い黒髪が好きだ。
 さわったらやわらかそうな、意外と丸っこいほっぺたが好きだ。
 どこにそんな膂力が眠っているのかと不思議なくらいに細い腕が好きだ。
 信じられないくらいに丸くてぷるんぷるんなおっぱいが大好きだ。
 大馬力のバイクを軽々乗り回す腰つきが好きだ。
 シミひとつない真っ白で綺麗な背中が好きだ。
 長くてすらっと伸びる脚が好きだ。
 生意気で、ドスが効いてて、だけどふとした時には優しい声が好きだ。
 仲間を大切にする心が好きだ。
 どんだけ恥ずかしかろうが嫌だろうが、引き受けたからには投げ出さない責任感の強さが好きだ。
 幼いアイドルたちの面倒を見てやる、世話焼きなところが好きだ。
 捨てられた子猫を拾ってくる優しさが好きだ。
 いっぱい食べるところが好きだ。
 無尽蔵の体力が好きだ。
 泳げない弱点を隠そうとする、年相応の可愛らしさが好きだ。
 でかいバイクを乗り回している時の、晴れやかな表情が好きだ。
 動物たちをモフりたい気持ちを隠しきれずに、ウズウズとしている表情が好きだ。
 結局モフったときの、満足げな達成感溢れる笑顔が好きだ。
 恥ずかしがる顔が好きだ。
 睨みつけてくる顔も好きだ。
 かっこよさ全開でシャウトする姿が、何よりも好きだ。

 好きだ。
 そして、もっと、もっとこれからずっと、どんどん好きになる。

 そんな確信めいた予感すら俺の心の中には灯っていた。

 だが、それと同時に俺は気づいてしまったのだ。

 こんなにも大好きな女の子を、俺はどうすることもできない。
 彼女は、他でもない俺が、この世界に引きずり込んだ。
 俺はプロデューサーで、拓海はアイドル。
 きっと俺たちにはデビュー当時から積み上げてきた、深い絆があることだろう。拓海もそれは感じ取ってくれていることだと思う。
 けれど、だからこそ。
 そうしてアイドルとプロデューサーという形で、この長く険しい道を歩いてきてしまったからこそ。
 俺はひとりの女の子として、この可愛い大好きな女の子を好きになることを許されない。
 俺はプロデューサーだから。拓海をアイドルとして輝かせる義務がある。
 けれど俺が拓海をアイドルとして輝かせれば輝かせるほどに、彼女は俺の手から遠く離れていってしまう。
 隣を歩いているのは変わらない。それでも、立っているステージが違うのだ。
 拓海を好きなのは、何も俺だけじゃない。たくさんのファンたちがいる。
 ……俺が遮二無二頑張って働いて作り上げてしまった、たくさんのファンたちが。
 そんなファンたちを今更裏切ることなど、できるはずがない。
 それがプロデューサーだからだ。
 夢の世界を生きるアイドルたちとは一線を画す、現実に暮らす人間に過ぎないからだ。

 そんな残酷な真実を悟った時、俺はその場でへたり込んでいた。
 明るいステージが目の前に広がっているのに、視界は真っ暗だった。

 大好きな拓海と、すぐそばにいるのに。
 それでも俺たちは、結ばれることはない。

 結ばれてはいけない。

 アイドルとプロデューサーだから。

 ……そんな事実に、いや。……自覚するまでもない当たり前だった事実に気がついてしまった俺は。
 なんだか茫然自失となってしまい、そこから先のライブの記憶はあまりなかった。

 あいつらと打ち上げに行った頃には、なんとかテンションを盛り上げて臨むことができていた。
 何よりあいつらはテンションが高いので、一緒にいると俺までテンション高くしていないとついていけないからだ。
 焼肉は財布には痛かったが、美味かった。それでもあまり食欲は湧かなくて、酒ばかり頼んで飲み干した。
 打ち上げの席では、ほとんど拓海の方は見なかった。見れなかった。
 うまそうに焼肉を食べるあいつを真正面から見たら……その時こそ、俺自身がどうなってしまうか分からなかったから。

 けれど打ち上げが終わって、こうして2人で道を歩いていると……。
 否が応でも頭の中には、絶望感が満ちてしまう。
 愛らしい少女。
 快活な少女。
 この世にたくさんいる女の子たちの中から、選んで、プロデュースを始めた少女。
 ……すぐ隣にいるのに、手の届かない少女。

「なーんかよ」

 拓海が、口を開いた。
 ライブの余韻を楽しんでいるのか、彼女の歩みは普段のそれよりもゆったりとして遅い。

「なんかいつもより、テンション低くねえか?」
「……そうか? いつも、こんなもんだろ」
「つってもよー、ライブでアタシらがあんだけ弾けたあとだぜ? もうちょっとなんか、あってもいいんじゃねーの?」
「疲れてるんだよ。歌って踊ってたお前らと同じように、俺も俺でお偉いさんのところに挨拶行ったりとか、スタッフさんのとこ走り回ったりとか、いろいろやることあったんだよ」

 俺がそう言うと、拓海は「そうかよ」と言っておし黙る。
 ……俺たちが車とバイクを停めた駐車場は、こんなにも遠かっただろうか。
 一歩一歩前に足を踏み出しているのに、なかなか駐車場が近づいてくる様子はない。

「もしかして、さ」

 しばらくしてから、拓海はもう一度口を開いた。

「アタシら、こんなトップアイドルになるべきじゃなかったのかな」

 思わず、拓海の顔を見た。
 彼女は俺の方は見ておらず、どこか遠くに視線を投げている。
 俺は震える声で拓海に尋ねる。

「……なんで、そう思うんだよ?」
「なんつーかさ。アンタが、ちょっと寂しそうだったから」
「…………」
「ずっとそばにいたアタシらが、トップアイドルの高みに駆け上がってくのを見て、それでアンタは……」
「違う、そうじゃない」

 拓海の言葉は聞いていられなかった。
 俺ははっきりと、その言葉を否定する。
 違うんだ、そうじゃない。
 拓海は今度こそ俺の方へと視線を返してくる。勝気そうな瞳が、今は不安に揺れていた。

「お前たちをトップアイドルに育て上げるのが、俺の人生を賭けた大仕事なんだ。他でもない俺が、お前たちを育て上げると決めたんだ」
「…………」
「だからお前らが、ああしてライブを盛り上げたのは誇らしいことだ。とても嬉しい。……その言葉に嘘はない」
「…………」
「お前らだったら、もっともっと高みを目指せる。そんな無限の可能性を、今日のライブで感じた。……それだけは、信じてほしい」
「……そうか」

 拓海はそう言って、ひとまずは納得したらしい。
 それ以上は何も口にすることはなく、また再び前を向く。

 そうだ。
 俺は彼女たちをトップアイドルとして育てると、決めたのだ。
 だからその念願叶って、彼女たちがライブを盛り上げる域までたどり着いた。それは、それだけは素直に嬉しい。
 これから先も、彼女が活躍するたびに俺は嬉しく思うことだろう。

 ……俺が寂しいと思ったのは、お前たちが高みに行ったからじゃない。
 その隣を歩く俺が、お前たちの……拓海の走る速さに追いつけてないから。
 隣にいられないんじゃないかと、強烈な焦燥感と、喪失感に襲われたから。
 だからこれは、とても幼稚な、プロデューサーとしては考えられないような態度だ。

 担当アイドルに恋をした。
 好きになってしまった。
 彼女が売れれば売れるほどに、同時に俺には手の届かない高みに行ってしまう。
 俺だけのものじゃない、みんなのアイドルになってしまう。
 俺が始めたプロデュースが、他でもない俺自身を苦しめる。

 俺はそんなプロデューサーとしてあるまじき二律背反に、いつまで耐えられるのだろうか?

「あー、それにしても寒ぃや」

 拓海が夜空を見上げながら呟いた。
 秋から冬へと差し掛かるこの時期の空は、高く澄んでいる。
 彼女の遠くの星を見つめるその視線と、すぐ隣を見ている俺の視線。
 こんな瑣末なことでさえ彼我の距離を感じてしまうのは、うがった見方なのだろうか?

 と、拓海が夜空から視線を外して、今度は俺の方へと目を向けた。

「おい、おい」
「……ん?」
「担当アイドル様が、寒いっつってんだろ?」

 寒くなってきたとはいえ、まだコートはいらない季節だ。
 拓海はシャツの上に厚手のパーカー、そして俺はいつものスーツ。

 そして拓海はかじかんだ手のひらを、ぶらぶらと揺らしている。
 指先はそわそわと落ち着きなく動き、ぎゅっと握られたり、パッと開かれたり。
 まるでその存在をアピールするかのごとく、拓海の右手はせわしなく揺れていた。

 そして、拓海の、しきりに口にする「寒い」という言葉。

 えっ、と思って拓海の顔を見た。
 彼女はこちらを見ていなかった。
 かといって、遠く夜空を見上げているのでもない。

 彼女は露骨に首をひねり、俺から顔を背けていたのだった。

「……拓海?」
「…………」
「おーい、拓海さんやーい」
「寒ぃ」

 俺が呼びかけると、拓海は一言、それだけ。
 見てみれば左手の方はしっかりポケットに突っ込んでいるのに、こちら側の右手は無防備にさらされたままだった。
 そして彼女のその長い指先が、クイッ、と小さく揺れる。

 俺はそれを見て、ほんのわずかの時間だけ、逡巡した。

 いいのだろうか。
 俺がこれからしようとしていることは、果たして許されることなのだろうか。

 ふと、拓海がちらりと俺を見た。
 街灯のか細い明かりしかない夜道でのことだ。
 もしかしたら、単なる俺の見間違いかもしれない。
 俺の妄想が生み出した、幻視かもしれない。
 ライブの高揚感が残っていただけなのかもしれない。

 拓海の頬は、うっすらとだが、赤く染まっているように見えた。

 それを見た時、俺の体は勝手に動いていた。
 あれっ、と思った時にはもう行動は完了していた。

 俺の左手は、拓海の右手をとっていた。
 ……手を繋いでいた。

「……あんだよ」

 目をそらしたまま、拓海が言う。
 その抗議の声は、どこか白々しく、言い訳がましいようにも聞こえた。
 だから俺も、彼女の言葉に乗っかる。彼女のほしい言葉を、口にする。

「寒いっていうから、あっためてやってるんだよ」
「……そーかよ」

 そう応えたきり、拓海は押し黙ってしまう。
 それ以上の抗議の言葉もなく、ただ俺と手を繋いでいるこの状況を享受していた。

 ……なんだか、さっきまであれだけ悩んでいたのがバカみたいだった。

 俺はプロデューサーで拓海はアイドルだ。それは歴然とした事実であり、変わらない。
 それでも拓海はどこまで先まで突っ走っていたって、こうして振り返って俺に手を差し伸べてくれる。
 それだけで、俺の心はいくらか落ち着いた。
 問題の全てが解消されるわけじゃない。いざ最後の時が来た時、余計辛くなるだけだ。
 わかってるよ、そんなことは。

 わかってる。

 この関係がいつまで続くかなんてわからない。
 拓海の気が変わったら、そこで俺なんて簡単に置いてけぼりにされてしまう。
 相変わらず根底に眠った問題から、俺たちが結ばれるハッピーエンドだって存在し得ない。
 俺たちは、走り出した瞬間から、たったひとつの結末だけは迎えようがない関係だった。
 良くも。
 悪くも。

 ふと、手のひらに違和感を感じた。
 左手に収めた拓海の手のひらが、ムニュムニュと動いている。

 なんだ、と思うと、拓海の右手が俺の左手に指を絡めてきた。

「……っ!?」

 俺の手のひらの指の谷間に、拓海の指がすっぽりと収まっていた。
 俗に言う、恋人繋ぎ……という、やつだった。

「おっ、おまっ……」
「寒いだけだから!」

 俺が慌てて声をあげると、それ以上に大きな声を拓海が張り上げた。
 相変わらず拓海はこっちを見てはいなかったが、しかし長い髪の間から覗く耳は確かに真っ赤に染まっているのが見える。

「……あー」

 俺は、言葉を探すことしばし。

「……そうか。寒いだけか」

 ……ああ、くそ。
 情けないプロデューサーだよ、俺は。

「……そーだよ。寒いだけだ」

 そしてそれに応える拓海の声もまた、どこか拗ねたように聞こえたのだった。

 今はまだ、彼女の優しさに甘えていよう。
 まだこの手のひらの届くところに、拓海の体温があるうちは。
 離したくないともがきながら、いつの日かそれでもこの手が俺の手からすり抜けていくのだとしても。

 今はまだ、その時じゃないから。

 ぎゅっと握ったのは、俺の方か、それとも拓海の方か。

 全部寒さのせいだと言い訳をしながら、俺たちは、ゆっくり、ゆっくりと歩いて行った。

 あんなに遠かったはずの駐車場は、思ったよりも、ずっとずっと近かった。


 🔥 † 🔥 † 🔥 † 🔥 † 🔥


「寄り道せず、まっすぐ帰れよ。怪我しないようにな。それじゃあな」

 パワーウィンドウを下げた運転席からそう声をかけてきたアイツは、さっさとエンジンを吹かして車を発進させた。
 我が事務所の地味な社用車は駐車場を出て行き、見る間にその姿を消してしまう。

 まったく、誰相手に物を言ってやがるってんだ。
 こちとら幾多もの峠を越え、死にかけるような修羅場をくぐったことだって一度や二度じゃあ済みやしない。
 今更こんな整備された街中を走ったところで、怪我するどころかふらつきすらしねえってえの。

 アタシは駐車場に残された自分のバイクの前で、アイツの乗り込んだ社用車が消えた先をずっと見つめていた。
 脳裏に浮かぶのは、ヘラヘラしたあいつの緊張感のない顔。
 そして妙に思い詰めたような、帰り際のあの顔。

 さんざっぱらアピールした結果、やっと繋いでくれた、手のひらの感触。

「……っだあああああああ!」

 急に恥ずかしさを覚えたアタシは、駐車場の中を1人でぐるぐる走り回っていた。
 夜も更けてきたせいか、停められている車はもうほとんど残ってない。

 なんっっっっっつー恥ずかしいことしてんだ、アタシは!

 初めてのドームライブを成功させたって高揚感はあった。
 最高の仲間たちと声を上げて盛り上がって、打ち上げの焼肉は美味かったし、内心テンションが上がってたのはあった。
 帰り道に2人きりになった途端、アイツがふさぎこんだような表情を見せて、気持ちがざわついたってのもあった。

 でもよ。でもだぞ。
 なんっっっって、露骨なアピールしちまってんだ、アタシときたら……。

 絶対バレてる。
 アタシが絶対ああして欲しくて、わざと手を出してたこととか絶対バレてる。
 でなきゃあの唐変木が、自分から手ぇ繋いでくるわけねぇもんよ!

 だからアタシも勇気を振り絞って、指まで絡めて、……こっ、こい…………いい感じにしてやったってえのに……。

「なんで普っ通ぅーーーに帰ってんだオメェーーよぉー!」

 アタシは目についた車止めをゲシッと蹴り飛ばす。
 しかし、小さく横長で、蹴るのに手頃な物体だったとはいえ、そいつは紛れもなくコンクリート。
 足の指が折れるんじゃねえかってえくらいの、とんでもねえ衝撃がアタシの足先に襲いかかってきた。

「っ痛っつぅーっ……」

 さすがに、折れちゃいないと思うけど。
 その場でしゃがみこんで足をかばいながら、アタシは涙目でため息をついた。

「……あのヘタレめ」

 初めて声をかけられた日から、長い時間がすぎた。
 たくさんの仕事を一緒にこなして、仲間も増えてきた。
 初めてのドームライブで会場を盛り上げて、これ以上ない大成功を収めた。
 お互い高揚感もあったし、いい雰囲気だったと思ったんだけどな……。

 アタシの手を握ってくれたってことは、気づいてねえってことはないんだろうと思う。
 でも、アイツは自分の中でアタシに対して一線を引いていて、そこから先には歩み寄ってはくれない。

 たぶん、その理由ははっきりしている。
 アタシがアイドルで、アイツがプロデューサーだからだ。
 アタシが、今もステージの上に立ち続ける、まだまだ立ち止まるつもりのないアイドルだからだ。
 自惚れかもしれねえけど、もはやアイツの一存でステージから降ろすことのできねえような、そんなアイドルになっちまってっからだ。

 ……ったく。

 何を怖がってんだよ。
 鬼の特攻隊長たるこのアタシを、無理やり自分の世界に引きずり込んだのは、アンタの方だろうが。
 それとも、アンタはそのことに責任を感じてんのか?

 そんなの、知ったこっちゃねえって。
 自分勝手に、己の信念つらぬけよ。
 それが、アタシらじゃねえのかよ。
 そうやってアタシらは、長いこと連れ合ってきたんじゃねえのかよ。

 こんなところで、日和ってんじゃねえぞ。
 あの日見せた根性、そろそろまた見せやがれってんだよ。

「……ったく」

 アタシはため息をつくと、しゃがんでいた身をゆっくりと起こした。
 車止めを蹴っ飛ばした痛みはまだ少し残っていたが、動けないってほどじゃない。

 アタシは自分の手のひらを見下ろす。
 かつてたくさんの不良どもを従え、ライバルチームのトップとタイマンを張り、そして屠ってきたこの右手。
 かつては絶対に届くはずがないと思っていた、手のひらに。
 今日やっと届いた。

 なあ、よ。
 アンタにとって、アタシはみんなの向井拓海なのかもしんねえよ。
 でもさ。
 だからって、アタシもいつまでもみんなの向井拓海でいなきゃなんねえってこたぁねえんじゃねえのか?
 アタシだって、わがまま言ったって、いいんじゃねえのか?
 おんなじように、アンタだって、わがまま聞かせてくれよ。

 エンジン噴かせ。
 走れ。
 走れ。
 どこまでも遠く走れ。
 壁があるってんならぶち壊せ。
 高らかにエンジンを鳴らし、想いを奏でろ。

 止まるな。
 求め続けろ。
 貪欲に。
 突っ走れ。

「……あー、本当に寒ぃや」

 ぶるっと悪寒が背筋を走る。
 もうすぐ冬も真っ盛りだ。今年ももう暮れなんだ。
 アイツがいようがいまいが、寒いのには変わらない。

「……帰るか」

 ライブ会場があるのは埼玉県で、アタシの家は神奈川県だ。
 バイクを飛ばすにしても、なかなかの距離がある。
 アタシは駐車場の中でくるりと体を反転して、

「…………は?」

 見覚えのある顔と、遭遇した。

「……いやー、大荒れですなあ、拓海殿」

 亜季じゃん。

「いや、でもこれは仕方ないだろ。あれだけお膳立てされてスルーされてるんだから」

 涼じゃん。

「まあまあ、そう言ってやるなって。あっちにも立場ってもんがあるんだろ?」

 夏樹じゃん。

「残念だったね、たくみん♡ でもまだチャンスはあるぽよ☆」

 里奈じゃん。

 アタシの目の前で、好き勝手喋ってるこいつらは……焼肉屋の前で分かれたはずの炎陣のメンバーだった……。

「な……な、なんで……?」
「んー?」

 言葉にならないうめき声を漏らすアタシに対し、里奈は少し迷ったそぶりを見せながら、ニパッと笑顔を浮かべて。

「尾・け・て・た☆」

 尾・け・て・た☆
 じゃねええええええええ!

「こ、こここここの野郎ぉおおおっ!」
「きゃはー☆ たくみんが怒ったー!」
「おおっ、総員退避であります!」
「つーかなんでみんなそんな元気なんだよっ、ライブの後だぞ !?」
「まあそう言うなって、食後の腹ごなしにはちょうどいいや」
「待ちやがれ、おめえらああああああああ!」

 アタシは駐車場でいきなり始まった鬼ごっこに興じながら、頭の片隅で思う。

 今は、これでいい。
 里奈を追い、夏樹を追い、涼を追い、亜季を追う。
 気のいい仲間とバカ騒ぎをしながら、この妙に鼓動が高まり火照った体を夜風で冷やす。
 ライブは終わっても、アタシらの旅路は続く。もっと高みへ。
 でも、いつかは。

 この鬼ごっこの行く末で、いつかアンタを捕まえる。