回答少女とホワイトボード

【001】

「春香さんは、大喜利会に興味はありませんこと?」
 いきなりそんなことを言われたものだから、びっくりしたあたしは手元のスマホ落っことすかと思った。今年の夏に買い替えたばかりのスマホの画面には、一人の女の子を可愛いアイドルへと育てていくという趣旨のアプリゲームが表示されている。ちょうど女の子のレッスンを終えて、各パラメーターが上昇したのを確認したところだったのだ。取りこぼしそうになったスマホを両手で抱えるようにして、ほっと息を漏らす。
 あたしは大学のラウンジに設えられたベンチに座っていて、テーブルを挟んで向かい側には同じ学科の同級生二人の姿がある。どうやら彼女たちが、あたしに声をかけてきたようだった。
 一人は金髪を耳の下辺りでゆるく縦ロールにした女性。勝ち気そうな大きなつり目を初めとした顔つきのキツさも相まって、派手目な印象を受ける。暖色を基調とした花柄のチュニックに、白のパンツが映えて見えた。足下はゴテッとした厚底のブーツで、真夏の暑い日も履いているところを見かけるくらい気に入っているらしい。名前を諫早令という彼女は、入学式初日の学生の顔合わせで知り合った。出会った当初は「派手! 怖! ドSそう!」とマイナスイメージが先行しており、メアドこそ交換したもののそう長続きしない関係だろうなと思っていた。だが、意に反して話してみると馬が合い、入学から半年経った今でもこうして行動を共にするくらいには仲がいい。
 もう一人は一転して地味な女の子だ。赤縁の眼鏡をかけており貞子のように長い黒髪が半ば顔にかかっているせいで、表情を読み取ることすら難しい。おしゃれを無精しているのか単に好きなのかは分からないが黒系の服を好んでおり、今日も黒のタートルネックセーターに濃いグレーのロングスカートを合わせるという徹底ぶり。夜道で闇と同化して、うっかり車に撥ねられても文句は言えそうにない。こちらの彼女は名前を渡良瀬文代といい、一年生の必修科目で知り合った。口数が多い方でないため、一緒に居て非常に楽なのである。
 とにかくよく喋るあたしと令、そしてその二人が喋り疲れた頃にぽつりと一言言い添える文代。そんな感じであたしたちは、うまいこと歯車の噛み合った三人組として連れ立っているのだった。
 今あたしに声をかけてきたのは、よく喋る方の友人、令だったらしい。が、あたしはアプリゲームに夢中でそれまでの彼女の話の一切合切を右耳から左耳へ受け流してしまっていたようで、会話の前後がまったく分かっていなかった。
「ごめん、オリビアのレッスンに夢中で訊いてなかった。なんだって?」
 オリビアというのは、あたしが夢中になって育てているゲームに登場するアイドルの名前だ。スマホアプリの中で生きていることだけを除けばごくごく普通の十五歳の女の子で、あたしのプロデュースによって今ではファンが十万人ほどいる立派な有名アイドルに育っていた。彼女はレッスン成功の旨の表示とともに、充実感に満ちた笑顔をあたしに向けていた。ファンには見せることの無い、有名アイドルになるための長く困難な道を共に歩いてきたあたしだけに見せる無垢な笑顔だった。
 あたしが同じテーブルについていながら話をまったく聞いていなかったらしいと悟った令は、これ見よがしに溜め息を吐く。
「またそのアイドルゲームですの? 人と会話している時くらいは、ゲームの中のアイドルから離れることはできませんの?」
「それはできないよ。今見たら体力が満タンだったの。レッスンして体力を消費しておかないと、もったいないじゃない」
 このゲームでは体力ゲージと呼ばれる数値があり、基本的にはこの体力を消費することで様々なアクションを行うことができる。各能力値を上げる為のレッスン然り、あるいはライブをしたり握手会をしたりといったお仕事をこなすにしても、体力の有無がものを言う。この体力は、時間の経過によって回復する。満タンになっていればそれ以上は増えないので、必然、満タンの時はさっさと体力消費してしまおうという考えになるのだ。
 これはこの手のゲームをプレイする者たちにとってみれば、あるあるともいえる事象なのだが、令は理解できないとばかりに首を横に振るだけだった。
 理解されない哀しみはあったが、膝を付き合わせて話をしているというのに顔だけはずっとスマホの画面とにらめっこというのも確かに失礼だろう。あたしはレッスンを終えたばかりのオリビアに、「それじゃあまた後でね」と声をかけてスマホをしまった。「この人、スマホに話しかけましたわ」などと若干引かれ気味に言われたが、そもそもスマホとは携帯電話なのだから、話しかけるのは当然だろうに。
「で? 何の話だっけ。哲学科の園崎准教授が、自分の研究室の水槽でイクラを飼ってるって話?」
「そんな話、初耳ですわ。マジですの?」
「マジらしいよ。スーパーで買ってきたイクラをそのまま水槽にぶち込んだんだって」
 さすがに孵化するとまでは思ってはいないだろうが、しかし奇行には違いあるまい。あたしは哲学科に所属する友人からその話を訊いた時、「さすが哲学科はやることが違うねえ」と言った。友人は、少し悩んでから「哲学で片付くものと片付かないものとあると思うよ」と返してきた。あたしが思っているほど、哲学の懐は大きくないらしい。
「……って、そんな哲学科の園崎准教授が毎週金曜日は学食でカレーを食べてて、『自衛隊みたいだ』って言われてる話なんてどうでもいいんですのよ!」
 そっちの方は初耳だった。生き方が独特すぎて、哲学的なのか単なる変わり者なのかがまるで分からない准教授だ。
 と、そのまま話の流れが園崎准教授の奇行の数々の方面へと向かって行くのかと思いきや、手綱を引っ張り軌道修正をしたのは、それまでずっと黙りこくっていた文代だった。
「…………大喜利会、よ。……今週末……令と行くの」
 それは消え入るようなか細い声でありながら、ラウンジ内を行き交う学生たちの喧噪にかき消されること無くあたしの耳に届いた。
「大喜利会?」
 あたしが聞いたまんまを繰り返すと、令は大げさに頷く。
「そうですわ。なんでも今度、参加者を募って大喜利をして楽しみましょうという趣旨の会合があるみたいでして」
「奇特な会合だなあ」
「あなたもおやりになられたこと、あるでしょう? 大喜利」
「え? いやまあ、そりゃああるけどさ……」
 大喜利、という単語に説明が必要なのかどうかは分からないのだが、敢えて説明するとするなら、それは演芸の一つである。
 出題者がお題となる問題文を提示して、参加者が各々その問題文に対しておもしろくて笑えるような答えを返す、というのが一般的な『大喜利』の姿だ。
 テレビ番組で言うならば日曜夕方の『笑点』が代表的な存在である。その他にもフジテレビ系列のバラエティ番組『IPPONグランプリ』では芸人さん同士の本気の大喜利対決が見られたり、またあるいは雑誌の投稿コーナーに大喜利コーナーが載っていることもざらにある。
 そんな『大喜利』という単語そのものは一般的にも広く周知されてはいるが、実際に『やったことがあるよ!』という人は少ないだろう。それはそうだ、『おもしろいことを言う』のが主目的となるのが大喜利の本質なのである。お笑い芸人でもなんでも無い一般人たちが、ホイホイ大喜利なんてやっているわけがない。
 ではなぜ、令と文代は、その大喜利を行うという会に行こうと言い出したのか。
 そしてなぜ、あたし自身も大喜利をやったことがあるのか。
 それは、あたしたちが皆、大学でお笑いサークルに所属していたから……に、相違ない。
 あたしたちが所属するサークルの名前は、『SDOC』という。桜之森大学お笑いサークル、略してSDOCだそうだ。正式な読み方としては『ソドック』というらしいのだが、あんまりにもダサすぎるのであたしたちはそのままアルファベット読みで『エスディーオーシー』と言っている。
 SDOCに入りたい、と言ったのは意外にも文代だった。
 入学直後の四月の頃、あたしたちはサークルを決めるにあたり、お昼時を大幅に過ぎた後のガラガラの学食で顔を突き合わせて話し合った。もちろん、せっかくこうして大学でお友達になれたのだから、と一緒のサークルに入る算段をつけるためである。
 大学のサークルの花形っぽいテニス部やチアリーディングは、令が真っ先に候補に挙げて、しかし真っ先に却下された。却下したのはあたしで、「疲れるから」「汗をかくから」「そもそもあんな短いスカートで動き回れる思考回路そのものが痴女」という言い分だった。あたしが候補に挙げたのはオカルト研究部とアニメーション研究部で、「ここだったらオタサーの姫として天下獲れそうな気がする」という意見だった。あたしの話すオタサーの姫としての大学生活の興隆っぷりを聞いて目からウロコとばかりに乗り気になってくれた令だったのだが、「……でも、オタクにチヤホヤされて……嬉しい、の……?」という文代からの一言で冷や水を浴びせられたかのごとくテンションが下がって結局却下された。あたしは正直、オタクからでもいいからチヤホヤされたかった。
 そんな侃侃諤諤(主にあたしと令が)な議論が煮詰まってきた頃、それまでサークルの案を出していなかった文代がぽつりと言った。
「……私は、お笑いサークルが、いいな……」
 話を聞くところによると、文代は元々漫才だとかコントだとかのお笑いが好きで、ライブにもよく足を運んでいたらしい。そんなわけでもって大学ではその漫才やコントに挑戦してみたい、みたいな想いがあったのだそうだ。せっかく知り合った学友であるあたしと令の入りたいサークルがあるのならば、自分の想いを押し殺して別のサークルに入ってもいいかなと考えていたというのだが、「……二人が、あんまりにも、決めないから……じゃあ、って思って……」との弁である。
 そんなわけで鶴の一声であたしたちは揃ってお笑いサークルSDOCに入会することとなった。
 SDOCのメンバーは総勢十三人。そこにあたしたち三人が加わったことで、合計十六人。入会の挨拶に行った時、部長殿からは「ハッハッハ! これでトーナメントが組みやすくなったな!」と言われた。そんなに頻繁にトーナメントを開催する予定のあるサークルなのだろうか。
 SDOCは大学の文化祭の特別ステージの他、年に数回ほど定期的にお笑いライブを開催している。これは大学構内の講堂を貸し切って行われるイベントであり、五月に開催されたライブにはぺーぺーのド新人ながらあたしたちも舞台に立たされた。いわゆるニューフェイスのお披露目、というやつだったのだろう。そしてその時にあたしたち三人がやらされたのが……“大喜利”だったのだ。
 あたしはその時の記憶を思い出すと、思いっきり顔をしかめて令を睨んだ。令はあたしの顔を見るや、ひょうひょうと口を開く。
「あらまあ、そんな不細工な顔をなさってどうしましたの」
「どうしたもこうしたもないわよ。あんた、あの時の惨憺たる滑りっぷり、忘れたとは言わさないわよ」
 なにせあたしたちは、本当に直前まで何も知らされていないままに舞台に上げられていたのだ。後々先輩方から聞いた話によると、五月の公演では毎年新人が入ってきたときの恒例のサプライズとして大喜利コーナーを設けていたらしいのだ。だが、そんな恒例のヤツみたいな流れを知らないあたしたちにとっては、地獄の沙汰でしかなかった。
 結局舞台上にいたのは、たっぷり十五分。大喜利という名の針のむしろにホイル焼きみたいに包み込まれたあたしたちは、さざ波程度のお情けみたいな笑いを頂戴した後、猛ダッシュで楽屋に逃げ込んだ。三人揃って身を縮こめて、五月だっていうのに寒い寒いとタオルを肩に羽織り身を寄せ合って心の傷を舐め合ったのは今でも夢に見る光景だ。悪夢のな。あの後「サプライズ成功だな!」だのと宣って楽屋に現れた部長殿に対し、あたしはグーで殴り、令はパーで引っぱたいて、文代はチョキで目潰しにいった。なにげに文代が一番エグかったので、彼女だけは部員たちに止められていた。
 まあ、長い昔話になってしまったが、つまるところあたしは大喜利に関してはそんな恐怖体験をしているのである。
 それが今更大喜利会だなんて、正気の沙汰とは思えなかった。それに令と文代は、あの時一緒に滑り散らかした仲間だったではないか。何を、のうのうとあたしを置いて大喜利側にまわっているのだ。
「だいたい何よ、大喜利会って? そんなホイホイみんなで大喜利できる会があるとでもいうわけ?」
「それが、あるらしいんですのよ」
 ね、と令は文代に話を差し向けた。どうやら大喜利会に行こう、という計画の舵を握っていたのは文代の方だったらしい。
「……渋谷に、専門店が、できたらしいの……」
「専門店? なんの」
「……大喜利、の……」
 は? とあたしは素っ頓狂な声を出して、文代を見た。珍しく文代が冗談を言ったな、と思ったのだ。
 しかし文代の目はいたって真剣だった。そこにはあたしをからかっているような悪意めいたものは、何一つ無い。
 つまり、あるのだ。文代の言う、それは。
「……大喜利カフェ『white × marker』。……それは、いつ行っても大喜利で遊ぶことのできる、……日本唯一の、サロン。……なの、よ」
 遊びのことならどこまでも追求する国、日本。ここまで来るとさすがに終わってんな、と思った。

【002】

 土曜日のお昼に渋谷に向かう電車の中は、目的地が近づくにつれて混み合ってきた。七人がけの座席に座っていたあたしは、自分の隣に置いていたハンドバッグを膝の上に移動する。それにより出来上がったとなりのスペースに、真っ白な髪のお婆さんが軽く会釈をしてから腰掛けた。
 ほんの少しだけ窮屈になったロングシートの上で、あたしは小さく溜め息を吐く。
 結局、大喜利会に参加することになってしまった。令と文代に半ば強引に押し切られるような形だった。
 そもそもの問題として、なのだが。あたしと、令と文代の間では、そういったお笑いに関する活動の経験値に、そこそこの差がある。
 一番経験値が高いのは文代である。元々お笑いが好きで、そもそもお笑いサークルに入ろうと最初に言い出したのも彼女だったこと。そんなわけで、これは納得のいく結果だろう。彼女は元々色んな芸人さんのネタを観ていたのだろう経験が生き、サークルの活動の一環であるネタ造りに於いて一年生三人の中では群を抜く素質を見せていた。
 あたしたち三人で執筆者を隠した状態でネタの台本を先輩方に見てもらった時、一番評判が良かったのが文代だった。ちなみに一番評判が悪かったのはあたしで、群像劇的なコントを書いてみたのだが『人物入れ替わりトリックでも使う気なのかってくらい分かりにくい』『中盤の、ここで理事長が出てくる、っていう指示はそういうボケなのかマジなのかだけ教えてほしい』『オチのところの演者全員が踊るって書いてあるト書きが一番サイコだった』とさんざんな言われようだった。ちなみに理事長には出てきてもらうつもりだったし、オチで踊るのは今でもおもしろいと思っている。
 ネタの精度的に、令はあたしとどっこいどっこいで、『舞台上で演じている様子がちゃんと思い浮かぶ』という一点でもって令の方が評価が高かった。そんな令であるが、経験値として考えた時には、あたしよりもより多くのものを積み重ねているだろうと思われる。なにせ彼女は、文代と一緒にコンビを組んで舞台に上がり、漫才を披露しているのだ。
 夏休みに入る前くらいの頃、文代は「漫才のネタを作ったので、相方が欲しい。春香か令か、どちらかに一緒にやってほしい」と、あたしと令に話を持ちかけてきた(今は省略したが、実際の文代の台詞には、あちこちに『……』が入っていた。喋り終えるのに二分くらいかかっていた)。そんな文代の申し出に対し、そもそも生来の性格からして肝が座っているのであろう令は、「よろしくてよ」と二つ返事で了承した。その間、あたしはスターバックスのホワイトモカフラペチーノをストローで吸っていただけだった。
 それから令と文代は、二度ほど二人だけで舞台に立つという経験を踏んでいる。配役は文代が淡々とボケていくのに対して、令が歯切れよくツッコミを入れていくという形だ。令は元々喋りがうまく、物怖じすることも無い為、舞台上でも堂々として見えた。そんな令に引っ張られるような形で横に立つ文代についても、こちらは多少の素人らしいたどたどしさが見られるとはいえ、それでも自信を持って舞台に立っているようだった。
 令と文代はその他にも、多人数を擁するコントにも何度か端役で抜擢されていた。一方のあたしは、サークル入会以来半年過ぎた今もまだ、大道具を動かす黒子役以外で舞台上に上がったことすら無い。それは初舞台となったあの日、まったく心の準備のない状態で放り込まれた大喜利コーナーで負った心の傷が、癒えていないから。
 あの時にお客さんたちから浴びせられた、冷たい視線が今も忘れられない。
 あたしは、おもしろくないから。
 人に見られる価値なんて、無いから。
 そんな当たり前のことを突きつけられたあの時の恐怖を、どうしても、忘れることができそうになくて。
 人数の多いコントをやろうという話になったときでも、あたしはその演者として出ることを断り続けていた。それに関して、部長をはじめとしたサークルのメンバーは、特に何を言うでも無かった。あたしは時々ネタを書いて、駄目出しをされ、ボツになり、また次のネタを書き始める。そんなことの繰り返しの中で、自分の人生の一部を浪費し続けていた。
 この前、本当に唐突に思ったことがある。自宅のお風呂で髪を洗う為にシャンプーをしていて、それを洗い流そうとシャワーのノズルを握った時。
 ……なんでお笑いサークルに、いるんだろう……?
 ……ほんとうにあたしは、つまらないのに……。
 あまりにも唐突に、脈絡も無く襲いかかってきた疑問。その疑問は直視するのにも堪え難いような、大きな不安感に包み込まれていて。それはあたしの心を黒く塗りつぶす。じわりじわりと真綿で締めるように、あたしの心を責め立てる。
 つまらないあたしが、お笑いサークルに居座り続けるのって……迷惑なことなんじゃないの……?
 あたしは自分の心にまとわりつくそんな疑問ごと振り払うかのように、シャワーの水を全開にして浴びた。何もしていないのに、いや何もしていないからだろうか。ひどい息苦しさを感じたあたしは、何分も何分も祈るように身体を丸めたまま、シャワーを浴び続けていた。

『渋谷。渋谷でございます。お降りの際はお忘れ物をなさいませんようご注意下さい……』
 そんな車内アナウンスを耳にしたあたしは、ハッとして辺りを見回した。車輛は既に駅構内に入って停止しており、前後の扉からはぞろぞろと人が乗り込んできている。ぼうっと考え込んでいるうちに、目的地である渋谷に着いていたらしい。発車ベルに急かされるようにして、膝の上のハンドバッグを引っ掴んだあたしは大慌てで車輛から転び出た。
 大喜利カフェなる謎のお店があるのは、渋谷駅から歩いて十五分ほどの場所だという。あたしたち三人は渋谷駅屈指の待ち合わせスポットである、『地球のうえにあそぶ こどもたち』の銅像前で集合した。
「いや、どこが屈指なんですのよ!」
 到着早々、令がご立腹だった。
「絶対、ハチ公前とか、モヤイ像の方が渋谷屈指の待ち合わせスポットですわよ! なんですの、『地球のうえにあそぶ こどもたち』て! 場所分からなくてわざわざ検索しましたわよ!」
 待ち合わせ場所を指定したのはあたしだった。当日朝になってLINEグループに『渋谷のどこに集まりますの?』と令から投稿が来たので、『地球のうえにあそぶ こどもたちの前』と返した。名前の通り、地球の上で子供達が遊んでいる像のことだ。ちなみにこの銅像は、ハチ公像のすぐ横にある。
「だったらハチ公前でよろしいじゃありませんの! わたくし全然見つからなくって、変にウロウロ歩き回ってしまいましたわよ!」
「…………私、も……聞いたこと、無かったから……。……勝手に、……井の頭線の方かと……」
 文代は井の頭線方面にどのようなイメージをもってたんだろうか。
 どうやら待ち合わせ場所を指定したあたしが、最後の到着だったらしい。お店の場所を知っている文代が自然と先頭に立って歩き出す。
 今日も今日とて文代は黒い。シンプルな黒のブラウスに、気に入っているのかよく見る濃いグレーのロング丈のスカート。なんかもうここまで来るとカジュアルな喪服としか表現のしようが無いのだけれど、今日は胸元にシルバーのネックレスチェーンをつけていた。まあ、多少はテンションがウキウキ状態なんだろう。たぶん。
 一方の令は青と白のチェック柄の爽やかなシャツに、濃紺のフレアスカート。純白のハンドバッグも合わさって、深窓のお嬢様がちょっと下界にお出かけ……みたいな可愛らしさのある服装である。……ゴツゴツと物々しい足音を立てる仰々しいブーツさえ無ければ、であるが。
 なんでこう、あたしの友人はどいつもこいつも、ファッションに一癖二癖噛まさないと気が済まないのか。ちなみにあたしは、ボーダー柄のティーシャツと、ジーンズである。超適当。近所のコンビニに行くときとレベルがまったく一緒の服装だった。
 あたしは前を行く文代の、背中の中程まで届く長い黒髪を見ながら、そういえばと思い声をかける。
「聞いてなかったんだけどさ。なんで、急に大喜利なわけ?」
「…………なんで……と、……いうと……?」
 文代がちらりと首を傾げるようにしてこちらを見た。長い前髪の隙間からちらちらと覗く瞳が、ちょっとだけ怖かったりする。
「や、まあ……なんでってわけでも、ないんだけどさ……」
 お笑いサークルに所属する私たちが、お笑いのお店に行ってみるのは当然じゃない? みたいな。そんな言い方は、やめてほしい。
 ……かつてのお笑いサークル初舞台での苦い思い出や、サークル内であたしだけが何もできていない引け目が、またしてもひょっこりと顔を覗かせる。駄目だよ、今は出てきちゃ駄目だ。今は、この子たちがいる前でだけは、引っ込んでておくれよ。
 ごくり、とちょっと不自然かもしれないくらいの音を立てて、唾を飲み込んだ。一緒にあたしの腹の中に抱える黒い感情も、心の奥底へとしまい込む。大丈夫、大丈夫。あたしはまだ大丈夫だ。
 あたしが文代に何も返せずにいると、令が横から会話に入り込んできた。
「なんでも今日はその大喜利カフェで、初心者歓迎会みたいなイベントをやってみるらしいんですのよ。ね?」
「……うん……そう……なの、よ……。初心者歓迎会、大喜利会……?」
「へえ。初心者歓迎会大喜利会、ね……」
 人生初めての、正真正銘初心者だった状態でやらされた大喜利が悪夢の洗礼だったあたしには、その字面はどうしても空々しく聞こえてしまう。
 行きたくねえなあ。
 重たい足取りで歩くあたしは、自然と二人から距離をとるように離れていく。二人はあたしが遅れているのにも気がつかずに、どんどん先に行ってしまう。
 ……このままあたしだけ人ごみに紛れて消えてしまったら、あの二人はどんな顔をするだろう。
 少しだけ離れた後ろをついて歩きながら、あたしはまた性格悪いことを考えているな、と思った。

【003】

 流行の発信地たる渋谷のシンボル、109前の分かれ道を右に進む。駅から離れていくにつれて次第に人並みはまばらになっていき、左右に広がる建物も落ち着いたデザインのものが増えていく。
 途中で大通りを右に曲がると、そのままメインストリートを離れるように文代は進んでいった。
「それで今日行くお店って、有名なところなの?」
 と、あたしは文代に向かって声をかけた。彼女は時折スマホの地図アプリでお店の場所を確認する以外は特にこちらを振り向くことも無く、声だけ返してくる。
「…………何度か……メディアには……取り上げられてる、みたい……よ?」
「ふーん。雑誌とか?」
「…………ジャンプ……とかで」
「ジャンプがお店の特集するかな」
「…………違った、かも……?」
「絶対違うと思うよ」
 ジャンプはもっと単純な、バトル! お色気! そしてギャグ! といった、現実逃避の塊みたいな夢のある雑誌だ。間違っても渋谷のマイノリティテーマなサブカルショップの特集なんて組まないだろう。サンデーならちょっとあり得るかもしれない。
 などとあたしと文代がとりとめも無い話をしていると、ふと令が何かに気付いたらしく「あら」と声をあげた。
「二人とも。あれではなくって?」
 そう言って彼女は前方を指し示した。つられてあたしたちも会話を打ち切ると、行く先に構えるその建物を見た。
 タイル張りの雑居ビルの一階にあるそのお店は、正面入り口が一面磨りガラス入りのサッシとなっている。磨りガラスなので中の様子は窺えないが、磨りガラスの向こうを黒い影が動く様子が見て取れるため、無人ではないらしい。そしてその上方にはポップ体の読みやすい文字で、『大喜利カフェ white × marker』と書かれた看板が提げられている。
 あたしたち三人は、しばしお店の前でその看板を見上げていた。ふと見ると、入り口の脇にはウェルカムボードが立てられているのに気がつく。黒地のボードに白のマーカーで、『本日、ルーキー大喜利プレイヤー歓迎会開催! 初めましての方、大歓迎!』と書かれていた。どうやら本当に、ここは大喜利ができるということを売りにしているらしい。
 そう思うと急に心がずしんと重くなるのを、自覚する。嫌だなあ……という想いが生まれてしまう。
 しかしそんなあたしの暗い気持ちをよそに、好奇心を抑えきれなかったのだろう文代がお店の引き戸に指をかける。あたしも覚悟を決めるしかなかった。せめて、せめて何事も起きませんようにと。令と文代の後ろに隠れるようにして、あたしはギュッと服の上から心臓の辺りを握りしめる。
 文代が、引き戸を開けた。

「いらっしゃいませえ〜っ」
 戸を開けた瞬間、店内からそんな元気な声が聞こえてきた。なんだ、と思う間もなくあたしたちの目の前に、一人の女性が小走りで駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませぇ。三名様ですねぇ? 当店のご利用はぁ、初めてでしょうかぁ? 当店はぁ大喜利を楽しめる日本唯一の大喜利スペースカフェとなっておりまぁす。本日はぁルーキー大喜利プレイヤー歓迎会のイベントを催しておりましてぇ、ルーキーの方はぁ、入場料半額でご案内させて頂いておりまぁ〜す」
 その女性は慣れた様子で、入店したあたしたちに喋りかけてくる。しかしあたしたちは、その言葉のほとんどが耳に入っていなかった。そしてその原因は、その女性の格好にあった。その原因が何かというと、つまり、その……。
「「メイドじゃん!!」」
 堪えきれなかったあたしと令の絶叫が、見事なまでにハモった。遅れて文代も「……メイド……ですね……」と呟く。
 そう。今、あたしたちの目の前には、紛うことなきメイドさんがいた。袖の膨らんだ形状の黒のワンピースに、フリルのふんだんにあしらわれた白のエプロン。胸元には紅いブローチの輝くスカーフをまとい、頭にはメイドさんの代名詞ともいえるヘッドドレスがしっかりと装着されている。ワンピースのスカートは、貞淑なメイドさんの魅力をより一層引き立てる、足下まで隠れるロングスカート。あたしは一瞬、いつの間にか渋谷ではなく秋葉原のメイドカフェに足を踏み入れてしまったのかと錯覚したほどだった。
 あたしたちがあまりの衝撃に絶句していると、その当のメイドさんはようやく自分の格好が驚かれているらしいことに思い至ったらしい。自分の服を見下ろしながら、のんびりとした口調で言う。
「ああ〜、この格好、ですかぁ? ここはぁ大喜利をするスペースであるのと同時にぃ、カフェでもありますからぁ。お給仕をするならこの格好でしょうってぇ、オーナーさんがおっしゃいましてぇ〜」
 そう言って彼女は、にへら、と笑みを浮かべる。お給仕をするならメイド服だとは、ずいぶんとぶっ飛んだ思考回路の持ち主だなと思う。
 ようやくメイドさんショックから解放されたあたしたちは、入り口のすぐ脇のカウンターで入店手続きを行うこととなった。
 大喜利カフェの基本入場料は二千円。これは休日デイタイムのパック料金で、五時までの間自由に店内で過ごしてよいらしい。五時以降も滞在する場合には、休日ナイトタイムの料金を追加で支払うことで延長できるシステムのようだ。
「それから参加者の皆さんにはぁ、こちらの名札を記入していただいてぇ、首に提げていただいておりますぅ。大喜利の回答を指名するときに、お名前が分からないと不便ですのでぇ。ご了承くださぁい」
 メイドさんに言われるままに、自分の名前をカードに書き込んで、それを名札ケースに入れて首から提げる。令と文代は字がきれいなのでいいが、あたしは字が汚い。汚い筆跡で書かれた名札を首から提げて人前に出るのだと思うと、『何見てんだよ! そうだよ、これがあたしの字だよ! あたしは字が汚いよ! 罵るがいいさ嗤うがいいさ!』と喚き散らしたくなる。という話を小声で令にしたら、「字がうまくないのなら、字がうまくなればいいじゃない」と言われた。自己研鑽力の高いアントワネットだった。
 さらにこの店はカフェを名乗っているだけのことはあり、ドリンク類も豊富である。経営者の趣味なのか、チェーン店のコーヒーショップと肩を並べるくらいのメニューが取り揃えられている。
「入場料金にワンドリンクが入っておりますのでぇ、一杯ずつご注文いただきますぅ」
 あたしはカフェオレを、令はブレンドコーヒーを注文する。文代はちょっと迷ってから、ミックスジュースを頼んだ。
 三人それぞれのドリンクを受け取ると、後は店内のお好きな席にどうぞとメイドさんは言う。
「十三時より、ルーキー歓迎会を開催致します。それまでは今しばらく、ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」
 あたしたちは、ここで改めて店内の様子を窺った。
 店内の広さは学校の教室ほど。向かって左手側に一段上がったステージがあり、そこにはプロジェクターで『大喜利カフェ white × marker』というお店のロゴが映し出されていた。そしてステージを囲むようにして椅子が並んでおり、その間にドリンクやフードを置く為の小さなテーブルがいくつか置かれている。厨房はパーティションで仕切ったその奥にあるようだ。
 並べられた椅子の半分以上はもう既に埋まってしまっている。十五人くらいはいるだろうか。何人かで固まって雑談をしているグループが二つほどあり、それ以外の人たちは黙って着席してスマホをいじっているか、あるいは物珍しそうに店内を見回しているかだ。
 今日は、ルーキーの歓迎会。
 そう考えると、今日が初来店という、あたしたちと同じ境遇のお客さんもいるのかもしれない。
 三人揃って横並びの椅子に座っていると、すぐに注文したドリンクが提供される。ちなみに今度は男の店員で、そっちは執事服だった。
 それから数分の間あたしたちは、店内に飾られた来店した有名人のサイン色紙や、直近の大喜利会であった名回答を張り出したものを物珍しげに眺めて過ごした。
 そして。
 やがて、十三時がやってくる。
 あたしの、人生二度目の、大喜利の時間が、やってくる。

【004】

 それは、おっぱいだった。
 これだけではあまりにも説明不足かもしれないが、いや、だがしかしそれはやはりおっぱいなのだった。
 舞台上には二つのおっぱい……そういえばおっぱいって一房辺りで一つ二つと数えるのだろうか。それとも靴の一足二足みたいに一対で数えるのだろうか。前者ならば舞台上にあるおっぱいは二つ。後者ならば一つ。つまりそれがどういうことを表すのかというと、とにかくでかいおっぱいを持った女が舞台上に立っていた。
 彼女は店内の時計が十三時丁度を示した瞬間に、パーティションで区画された向こうから姿を現した。そのあまりにも巨大な、胸に双子を妊娠なさってるのですかと言いたくなってしまうようなたわわを、たわわたわわしながら。
 その女性が身にまとっているのは、単なるグレーのレディーススーツ、ではある。だがしかしそのワイシャツの胸元はざっくりと大きくはだけられ、深い双丘の谷間があらわになっている。胸元が突っ張っている為かジャケットの前ボタンも留めておらず、それがそのわがままなおっぱいを好き放題目立ちたい放題させるのに一役買っている。
 一段高く据えられている舞台の上からじっくりと見定めるように観衆の顔を見回すと、彼女はゆっくりと口を開く。
「君たちは変人だね」
 !?
「世の中広しと言えども、君らほど頭のおかしい連中は、探してみてもなかなかそうはいないだろうね」
 !!?
 え、なに、なんでいきなり変人扱いされているんだろう、あたしたちは? 思わず周囲の反応を見回してみても、令や文代はぽかんとした顔をさらしている。他のテーブルの人たちも、軒並み似たような顔を見せていた。しかしそんな中で、何人かだけはニヤニヤとした笑みを浮かべて舞台上の彼女を見ているのにも気がついた。
「しかしだね……」
 耳にしっかりと届くアルトの声が、言の葉を引き続いて紡いでゆく。
「私はそんな変人たちが大好きだね!」
 そう彼女は声高に言った。
「大喜利を好き好んでやろうだなんてヤツは大概変人さね! だが、それでも私は大喜利が大好きだね! だからこそ、私の大好きな大喜利をやりたいと言ってくれる君ら変人が、心の底から愛おしいのだね!」
 彼女は店内中からの視線を一身に浴びると、まるで指揮者のように両腕を広げて自らを誇示する。
「……紹介が遅れたね。私の名前は、白梅愛理。人呼んでこの店のオーナーだね。……大喜利を愛しすぎたが故に、公務員を辞めてこの大喜利カフェを始めてしまった、一人のバカな女さね……」
 収入は三分の一くらいまで落ち込んだよね。そう言って彼女……白梅オーナーは、ふっとシニカルに笑った。笑ってる場合じゃないだろ、と思った。

 観衆に対して異様なインパクトを与えた白梅オーナーのあいさつが終わると、メイドさんの手によってホワイトボードとマーカーが配られた。あたしたちのテーブルにも三枚のホワイトボードが置かれ、一人一枚ずつ手に取る。
 メイドさんが甲斐甲斐しく大喜利用具の給仕をしている最中、白梅オーナーは舞台の上手に移動しながら説明を続けていた。
「わざわざこんな大喜利カフェにまで足を運んでくれる皆さんのことだからね。今更大喜利のなんたるか、なんてことを四の五の語ってみせる必要は無いのかもしれないけれど……だね。本当にこれが初めての大喜利ですって人もいるかもしれないから、まずは大喜利のなんたるかというものを、説明していこうと思うんだね」
 そして彼女はスーツのジャケットの胸ポケットからパワーポイント操作用のリモコンを取り出すと、画面を切り替えていった。
「ルールとしては、まあ皆さん一度はテレビで観たことがあるだろうね。まずお題が出るね。それに対して、演者……つまり我々が何かしらのリアクションを返すね。たとえば……『こんなテレビは嫌だ』というお題があって、それに対して、『映らない』とかだね」
 観客側から少し笑い声が漏れた。確かに映らないテレビは嫌だけども。
「まあこれはかなりシンプルに答えてはいるが、でも『お題』が出て、それに対する『回答』を返しているというルールはしっかりと守っているね。このルールさえ守っていれば、何をやっても構わないからね。笑いが獲れればそれに越したことはないが、笑い以外にも色々なリアクションが帰ってくるのが大喜利の魅力でもあるからね」
 と、あらかたの説明を終えたらしい白梅オーナーが、今度は客席……つまりあたしたちに向かって怪しく微笑んだ。
「というわけで、お題を出すね。こういうものは、実戦で経験を養うのが一番だからね」
 彼女がボタンを一つ押しただけで、舞台上に映し出されていたプロジェクターの画面が切り替わり、お題が提示された。
 心が急激にざわつくのを自覚する。今年の五月、何も知らされていないのにいきなり舞台に押し出されて、地獄のような大喜利を味わったあの記憶がフラッシュバック、するよりも前に。パッと切り替わった画面に映し出された、そのお題が目に入った。

『 最弱高校野球部の練習を見て「これは弱くて納得だな」と思った理由 』

「というわけでまず最初のお題はこれだね。時間は……そうだね、初めての人も多いだろうしね。長めに、七分間でやってみようかね」
 そう言うと白梅オーナーはキッチンタイマーの時間をセットして、「では、スタートだね」とボタンを押した。
「回答が出来上がったら、順に当てるから挙手をしてもらえるかね。時間内だったら何答でもしていいからね」
 言われてあたし、それから令と文代は顔を見合わせる。ここからは好きに回答を出していいよ、ということらしい。辺りを見てみれば何人かはもう手元のホワイトボードにマーカーを走らせ始めている。え、もう思いついたの? 早くない? あなた方、最弱高校野球部に所属してたの?
「では、まあ……わたくしたちも」「…………やって、みましょう…………か」
 令と文代も揃ってホワイトボードに視線を降ろしてしまった。うーん、さすが好き好んで大喜利屋さんに行きたいと言ってただけのことはある。あたしも何か考えた方がいいのかな……とまごついていると、参加者の中の一人が手を挙げた。白梅オーナーが、彼の胸元の名札を見て指名する。
「はい、鳥谷さん」
「はい。えーと、『監督が女だ』」
 偏見がすごい。いや、間違っていなくはないんだろうけど。確かに甲子園出場校で監督が女だって学校、見たことも聞いたこともないけど。
 鳥谷さんが回答を出すと、回答を考えていた何人かが、あははと声を漏らした。どうやら回答を考える傍らで、誰かが回答をしたらそれもしっかり聞いて笑っているらしい。インプットとアウトプットが両立する聖徳太子みたいなことをしているな。
「はい」
「はい、青柳さん」
「えー、『場所が無くて、柔道場で練習している』」
 いや、邪魔! 室内でやるにしてももっと別な場所無かったの!?
 この回答には参加者のほとんどが声をあげて笑っていた。出した青柳さんは、『おお、ウケた』みたいな顔をして、嬉しそうにホワイトボードを引っ込める。お題が出てから時間が経ったせいか、それから何人かが立て続けに挙手をしていく。それらは一人一人白梅オーナーによって挙手した順に指名されていく。あたしは自分で回答を考えることも忘れて、他の人の回答を見ては「おお〜、おもしろい」「なにそれおもしろーい。すごいじゃん」「う〜ん、今のはあんまり」「あー、野球弱そう」「それは野球じゃなくてカバディだな」等と勝手な感想を頭の中で呟いたりしていた。
 するとそんな中で、ついにあたしの隣に座る女が動いた。諫早令はすっと斜め四十五度の角度でまっすぐに右手を掲げた。
「はい、諫早さん」
「はい。……『全員ユニフォームではなくジャージ着用』」
 いや、弱そうだな。部活動っていうよりももはや体育の授業の延長線上にしか見えない。この回答はあたしはわりと好きだったのだけれど、笑い声はさざ波程度のものしか返ってこなかった。令は、「うーん、難しいですわね」と渋面をつくりホワイトボードをさげた。
 するとまたしてもあたしの友人、今度は文代が控えめに顔の横辺りに手を持ち上げる。
「はい、渡良瀬さん」
「……………………『グラウンドを…………うさぎさんが…………跳び回っている』」
 あー、弱そう。すごく光景が牧歌的で、強そうなイメージがまったく伝わってこない。これもまた何人かがにやりとしたものの、爆笑を引き出すにはまだまだという感じだ。文代は静かにホワイトボードを裏返すと、ゆっくりとした手つきで回答を消していく。
 あたしの両隣の令と文代と、うーん、と眉間にしわを寄せて思考を巡らせていた。あたしは、何か考えてみようかと思って、ペンを取ってみて、
 ピピピピピピピピピピピピピピッ
 そこで、七分間が終わり、大喜利が終わった。

【005】

「大喜利ってのはぁー、難しいもんだねぇー」
 あたしがそうスマホに声をかけると、画面に表示されていたアイドル育成ゲームのオリビアが可愛らしく微笑んだ。ような気がする。オリビアの生きているスマホゲーはいわゆるアイドル育成系カードゲームみたいなやつなので、話しかけたところでカードに描かれた少女は頷くことも微笑むこともない。けれどそこは長年アイドルのプロデュースを続けてきた自分とオリビアとの絆でカバーし、今ではオリビアがあたしに何を言いたいのかが、その変わらない表情からでも読み取れるようになっていた。
 今あたしがオリビアとイチャイチャしているのは、大喜利カフェの奥まった部分にあるスペースだった。スタッフルームへ向かう通路の途中にある、ガラス張りの壁に区切られて、ぽっかりと開いたスペースである。スペースの横には男女兼用の個室トイレの扉があり、スペース内の壁には大喜利カフェとは別の会場で行われる大喜利ライブの告知ポスターなんかが所狭しと貼られていた。壁際に沿うようにベンチが置かれていたため、用を足したついでに、カフェスペースに戻る前にオリビアとの逢瀬を果たしているのであった。
「……みんな凄いよなー。お題がパッと出ただけで、すぐにあんな答えが思いつくなんてさー。……あたしだけが才能が無いんじゃないかって、思っちゃうよねえ」
 スマホの画面では、尚もオリビアが微笑んでいる。あたしには分かる。彼女はこう言っている。『そうだね。みんなすごいね』と。
 そうだ。みんなすごい。答えが出てくるだけでもすごいのに、その上おもしろいことを言えるだなんて。どうしてプロの芸人さんでもないのに、みんなあんなすごいことができるんだろう。
 あたしはあれからずっと、一度も答えを出すことができなかった。一応、回答を考えようという意思はある。人の回答を見て、そういうボケ方もあるんだと学ぶこともあり、そこから発想を得ていくこともある。だが、クオリティに自信が無い。出しても、果たしておもしろいのかが分からない。いや、つまらないとすら思える。一度として人前に出しても恥ずかしく無いような、満足のいくクオリティの回答が思いつかず、ついには一度も手を挙げ、ホワイトボードをみんなに見せることもないままに休憩時間を迎えてしまったのだった。
 あたしは無意識に、オリビアの頭を撫でていた。画面越しにではあるが。硬く冷たいスマホの画面の感覚が、指に伝わる。
「……やっぱり、才能が無くてつまんないあたしなんて、大喜利なんかやってもみんなに迷惑かけるだけだよなあ……。やらない方が、いいよなあ……」
 ガチャリ、と音がした。次いで革靴がリノリウムの床を歩く足音。
 あたしはすました顔をして、何事もなかったかのようにスマホを見ている格好のまま固まっている。
 コツコツ、という硬い足音はあたしの向かいのベンチに近づくと、入室してきた人物は、そのままそこに腰を下ろす。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………スマホに向かって、話しかける趣味があるのかね?」
 聞かれてたんかい!
 スペースに入ってきたのは、先ほどまで大喜利の司会を務めていた白梅オーナーだった。友達の前でならばともかく、初対面のお店のオーナーさんに、スマホに向かって話しかけるところを見られるのは少しばかり気恥ずかしかった。
「いや申し訳ないね。別に盗み聞きするつもりは無かったのだけれどね」
 そう言って白梅オーナーは、レディーススーツの胸ポケットから煙草を取り出した。一本指に咥えると、慣れた手つきでジッポライターで火を点ける。
「……お客さんの目の前で、煙草吸うんですね」
「吸うんですねも何も、ここは喫煙所だからね。むしろ吸っていない君の方が異端な気もするけどね」
 そうだったのか。そう思って見てみると、確かにベンチの横にはスタンド付の吸い殻入れが据え付けられている。
「まあ確かに、今日は吸うお客さんも少なかったからね。気がつかなかったのも無理はないね」
「すみません。出て行った方がいいですか?」
「副流煙が気にならないのであれば、無理に出て行く必要も無いね」
 副流煙は気になるな……。そう思いあたしが腰を上げようとするよりも前に、「ただ……」とさらに白梅オーナーは言葉を続けた。
「私個人としては、もう少し君と話をしてみたいとも思うかな?」
「…………」
 まあ、わざわざ少し話をしてみたいと言われてしまっているのに、席を立つ理由も無い。あたしは少しだけ浮かしていた腰を、もう一度だけベンチに据え直す。
 話をしてみたいと言うだけのことはあり、白梅オーナーはさっそくあたしに向かって言葉を投げかけてきた。
「さっきの、話なんだけどね」
「さっきの……?」
「大喜利なんてやってても、みんなに迷惑をかけるだけ……やめた方がいいかな……ってやつだね?」
「…………」
 あたしはさっと目を伏せることしかできなかった。
 聞いていたのなら、せめて聞き流してほしかった。触れてなど、欲しく無かった。あたしが不意に漏らしてしまった、弱い心だ。本来ならば、隠し通しておくべき、心の深い闇だ。
 白梅オーナーは、ふうっと煙を吐き出してから、言った。
「君は、ウケたことはあるかね?」
「無いですね」
 即答した。それは迷わずに答えることができた。あたしは過去に二度、大喜利をしている。サークルに入った時の地獄のようなダダ滑りの大喜利と、今日の何も答えられていない大喜利。ウケたことなんて、一度も、無い。
「ならば一度ウケてみることだね。悩むのは、それからでも遅くはないからね」
「そん、な……簡単に言いますけどね……」
「簡単だからね」
 白梅オーナーは。実にさらりと、事も無げに言うのだった。
 ウケることなんて、簡単なことだ、と。
「これは私の持論だけどね……」
 ふう、と紫煙を吐き出す。その迷いの無いまっすぐな吐息に、あたしの目は引き付けられた。
「ウケることなら、誰だってできるんだよね。ずっとやっていれば、誰でも絶対ウケる時がくるんだよね」
「でも、なら……」
「難しいのは」
 あたしの言葉を遮るようにして、白梅オーナーは言った。
「ウケ“続ける”ことさね」
「ウケ、続ける……?」
「そうだね。ずっとずっと、ウケ続けることだね。どんなお題が出ても、どんな状況でも、ずっと面白い回答を出し続けて、ウケて、ウケて、誰よりもおもしろいことを言い続けることだね。私たちはその境地を目指して、もがいて、苦しんで、今日もホワイトボードを手に取るんだよね」
 白梅オーナーは、すっかり短くなった煙草を吸い殻入れに捨てると、すっくと立ち上がる。
「『おもしろくなりたい』。その一心を胸に、何度も何度も打ち拉がれながら、夢を打ち砕かれながら、それでも立ち上がり、這いずってでも、前へ前へ……そんな、苦悩する大喜利プレイヤーは、掃いて捨てるほどにいるものだからね」
 それでも、とオーナーは言う。彼女の瞳は、もはやあたしのことは見ていない。一介の、初めて来ただけのお客さんの一人に過ぎないあたしのことは、もはや目に入っていない。彼女の見ているものは、どこか遠く。彼女自身もまたその苦悩する大喜利プレイヤーの一人なのだろう。だから彼女は、その足下で……いや、その同じ舞台に上がってすらいないあたしのことなど、見てはいない。眼中にすらない。だからこれは、慰めの言葉ですらない。彼女が、ただ思っていることを、思想を垂れ流しているだけなんだ。
「彼ら、彼女らがそんな死ぬよりも苦しい道を歩んでいるのは……たった一つの成功体験が自らを捉えて離さないからだね。あの夢のような快楽に、もう一度、その身を浸したいからなんだね」
 そこでやっと白梅オーナーはこちらを振り向いた。そういえばそんなとこに居たな君は、みたいな顔をして、ひょっこりと顔を向けた彼女は。
「ウケることだね。たった一度だけでいいからね。諦めようとか、迷惑かもとか、そんなことを考えるのは、後ででもできるからね。……この道を往く先輩として、アドバイスできるのは、それだけだね」
 それでは休憩の後も、大喜利の時間を楽しんでってくれたまえね。お飲物の追加注文も、いつでも承っているからね。
 と、最後の最後でやっと大喜利カフェの店員さんらしいことを言った白梅オーナーは、呆気にとられたままのあたしを喫煙所に置き去りにしてさっさと出て行ってしまうのだった。

【006】

「ここからはちょっと形式を変えて大喜利をやってみようかね」
 舞台上で白梅オーナーが宣言するのを、あたしはどこか遠い世界のことのように聞いていた。
 ウケること。たった一度だけでいいから。
 と。
 ずいぶんと簡単なことのように言ってくれたけれども。それができないから困っているのではないか。それができないから、こんなにも居たたまれない気持ちになっているのではないか。
 人は、笑って楽しむ為にこの大喜利カフェに足を運んできているのだろう。自分が大喜利でウケたいから、という気持ちももちろんあるだろうが、それと同じくらい人のおもしろい大喜利を観たいから、という気持ちもあるはずだ。そんな中で、生半可な、友人に誘われて人付き合いみたいな気分で来てしまったあたしがいることが、どうしても自分自身で違和感を感じてしまうのだ。
 お笑いサークルにしたってそうだ。こちらも元々は文代に誘われて入ったにしろ、同じく誘われた身である令はしっかりとお笑いの世界に身を浸して立派に舞台に立って役目を果たしている。その一方であたしはどうだ。舞台に上がるのが怖い。冷たい目で見られるのが怖い。おもしろいことなんて、何にも言えない。与えられた役割を演じるだけのコントでだって、足が震えて何もできない。だったら台本すら存在せずアドリブだけで全てが決まってしまう大喜利なんて、できるはずがない。じゃあ舞台裏でネタ台本をつくるのならできるのかって言われたって、それだってできやしない。読んだ人が全員首を傾げるくらいのものしか作れやしない。
 下手でも、好きならいいのだろう。好きでやってるんですって胸はって言えるのならば。
 でも、あたしは、別に大喜利が好きなわけじゃない。お笑いだって、観るのは好きだけど、それだって積極的にライブに行ったりなんかしない。テレビで、たまに何かやってたらチャンネルをまわす手を止めるくらいだ。他に面白そうなドラマがあったら、そっちを観ちゃうくらいの興味しか無いんだ。そんな、向上心も欠片も無いやつが、その上に当たり前のように才能も無いようなやつが、そんなやつが何にもおもしろいこと言えないのなんて、当たり前ではないか。
 ……もしあたしがサークルを辞め「春香さん」
「う、うぇえっ……!?」
 いきなり令に横から声をかけられたものだから、うっかり女の子が出してはいけない類いの声を出してしまった。あんまりにタイミングがタイミングだったものだから、すわ心の声でも読まれたのかと思ったのだが……
「ちょっと、変な声出さないでくださいましよ」
 と令の様子には平時と変わったところは無かった。
「そんなことより、また大喜利が始まるみたいですわよ」
「あ、ああ、うん……大喜利ね……」
 実を言うともうそんなに大喜利なんてやりたいと思う気持ちは失せていた。
 ところが。そんなあたしの耳に、思いもかけない言葉が飛び込んでくる。
「みんな、アイドルは好きかねー!?」
 好きです!
 とはさすがに口に出しては言わなかったが、しかし事実あたしはアイドルが大好きだ。いや、正確にはスマホアプリのアイドル育成ゲームが好きなのだが。
 そしていつの間にかプロジェクターの画面が落とされていて、代わりに舞台上の中央には白梅オーナー。彼女はビシッと指を立てて高らかに宣言した。
「最高のアイドルをつくろう!」

「企画の主旨は簡単だね。要するに、みんなで最高のアイドルを作っていこうという企画だね」
 プロジェクターが消えて明るくなった舞台上を左右に歩き回りながら、説明をする。
「これからみんなには一人のアイドル候補生の女の子を、大喜利を通じて立派なアイドルに育て上げて欲しいんだね」
 大喜利を通じて? とあたしは一瞬疑問を頭に浮かべたが、それを読んだかのように説明が続いていく。
「たとえばアイドルに必須のプロフィールを、大喜利で色んな設定をつけてしまおうというわけだね。出身地だとか趣味だとか、特技だとか……こんなお仕事をやってますだとか、こんな歌を歌いますだとか……なんでもいいから、そういう個性をつけていくわけだね。そうして、みんなで協力して最高のアイドルを作ろう……という企画なわけだね」
 白梅オーナーの説明を聞きながら、あたしは静かに頷いていた。要するに『アイドル候補生』というまっさらなホワイトボードに、ここにいる参加者みんなで色んな要素を付け加えていこうという主旨らしい。なるほど、お題がより広いというか、どんな設定を付け加えるようにしてみても許されるという感じが、確かに初心者向けっぽい感じがする。
「して、そのアイドル候補生となる女の子は、どんな子なんですかしら?」
 と、あたしの横で座って説明を聴いていた令が、質問をした。確かに、それはちょっと気になるところでもある。
「いい質問ですねえ」
 いきなり白梅オーナーが週刊こどもニュースのお父さんみたいになった。白梅オーナーはゆっくりと会場内を見渡すように視線をめぐらして、やにわに口にした。
「アイドル候補生は、私だね」
「は?」「は?」「はいはい終了」「解散でーす」「おつした」「もう、来ませんから」「おいおい阪神負けてんじゃねーか」
「こらこらこら君たち、ちょっと待ってほしいんだけどね」
 興ざめだと言わんばかりに席を立とうとする参加者の人たちを制するように、白梅オーナーが両手を広げて言った。参加者達はそれも一つの団体芸のようなものなのか、本気で帰ろうとする人たちはおらず、黙って彼女の説明に耳を傾けている。
「まあ要するに私、白梅愛理という一人の女性をアイドルとして売り出す為に色んな設定を考えてみよう……という大喜利だね。自分自身を素材として提供する以上、どんな設定をつけられようとも甘んじて受け入れる覚悟だね。だから、そうだね。きみたちの手で、私をスターダムに押し上げていってほしいんだね。……ああ、そうだね。陽菜ちゃん、ちょっと手伝ってもらってもいいかね」
 白梅オーナーが名を呼ぶと、それまで受付に座って会場を眺めていたメイドさんが「はいっ」と返事をして立ち上がった。
「陽菜ちゃんは良かった回答をメモしておいてね。どんな回答があったか、最後にみんなで振り返りたいからね」
「あ、そうですかぁ。分かりましたぁ、ちょっと待っててくださぁい」
 言われたメイドさんは、受付の引き出しから紙とペンを取り出すと、白梅オーナーに向かってオーケーのサインを送る。それを見た白梅オーナーは、小さく頷くと、改めてあたしたちに向かって声をかけた。
「それでは、時間はちょっと長めにとって七分間でいこうかね。わたしにとびっきりの設定をつけてくれることを願っているからね」
 スタートだね! という宣言と同時に、彼女がピッと手の中のキッチンタイマーを作動させた。
 と、それとほとんど同時に何人かが手を挙げている。本当にどうしてこの人たちは、こんなに頭の回転が早いんだろうか。
「じゃあ、鳥谷さん」
「あのー、CDに総選挙の投票権がついてて、それで投票できるんですけど。白梅さん一人しかいないので、みんなで白梅さんに投票して、白梅さんが一位になって、みんな幸せっていうシステム」
 鳥谷さんがホワイトボードを出すと、さっそく会場内で笑い声がそこかしこから響いていた。その全くやる意味のない投票はいったい何の為に存在するシステムなんだ。
「はい、じゃあ次、梅野さん」
「えー、『アイドル!』って叫ぶと、服が爆散する」
「それは何の設定なんだね!?」
 現実にアイドルにそんな設定があっても、絶対使わないと思う。というか、服を爆散させているアイドルってなんなんだ。
「はい、じゃあ次は、糸井さんだね」
「初の、二槽式のアイドル」
「どこが二槽なんだね!? 私はどこが二槽式にされてしまったんだね!?」
 アイドルに実装されてしまった槽が何かも分からないし、それが二槽になってるとかもうホラーの域に入ってしまっているのではないだろうか。
 しかし、アイドル……か。あたしは椅子の脇に置いているハンドバッグに仕舞ったままのスマートフォンを思い出しながら、ペンを握りしめる。あたしが大好きで、毎日やっているスマホアプリゲームもまた、アイドルを育成するゲームだ。
 あたしは作中に登場するアイドルであるオリビアには、可愛く育てようと生活に支障の出ない程度のラインで課金をしている。その甲斐あってか、今ではオリビアはどこに出しても恥ずかしく無いような、素敵なお嬢さんに成長している。
 しかし、その自慢のアイドルであるオリビアが、『まさかこんなことを』ということをしていたら……彼女のステータスがどれだけ高かろうと、ビジュアルがどれだけ可愛かろうと、ギャップで笑ってしまったりするのではないだろうか?
 自分の好きなジャンルのものが絡んでいたからか、それまで雲を掴むような思考状態だったのが、いくらかすっきりとしてスムーズに頭が回転していることが自分で分かった。
 もしあたしが。担当アイドルであるオリビアがこんなことをしてたら笑っちゃうな、ということは。
 あたしはさらさらっと思いついた回答を、そのままホワイトボードに走らせてみた。
 おもしろい? どうだろう。分かんない。
 でも、こうやって回答をさらさらっとホワイトボードに書き込むことができただけで、あたしにとっては上出来だった。今までのあたしは、思い浮かぶことすらなかったのだから。だから、まあ、ウケたらウケたで。儲け物、くらいでさ。
 あたしはおずおずと、軽く右手を挙げて、白梅オーナーの方を見た。目が合った。彼女は、ほう、と静かに吐息を漏らす。
 他に同じタイミングで手を挙げていた人はいなかったらしく、あたしはそのまま自分の名前を呼ばれた。
「坂倉春香さん」
「は、はい……」
 緊張して声が少しかすれる。大丈夫? 分からない。でも、とにかく、いけ。ホワイトボードに書かれた文字を、読むだけだ。
 あたしは普段会話をするときの十倍は丁寧に、一音一音、噛んで含めるように言葉にした。
「『普通の女の子に戻ります』と言って引退して……、ハイパーメディアクリエイターになった」
 ……ど、どうですか? と、祈るような気持ちが一瞬だけ、あって。
 どっという笑い声が、押し寄せて来た。
「あははははっ!」「いやいやいや、ハイパーメディアクリエイター全然普通の女の子じゃないですからね!」「てかアイドル作ってるのに、引退さすなよ!」
 信じられない……ウケちゃったよ……。
 頭の奥がじんわりとしびれるような感覚に包まれていたあたしは、すがるような視線を、令と文代に向けた。
 二人は、「よかったですわね」「よかったね」と小さな声をかけてくれた。
 ああ、なんだよこいつら。あたしのこと、ちゃんと気にかけてくれてたんだなって。
 こんなこと思うの、めちゃくちゃ、上から目線みたいで嫌なんだけど……めっちゃこいつら、いいやつじゃんか。
 思わず目頭が熱くなってしまったあたしは、誤摩化すようにコーヒーカップを手にして、カフェオレを流し込むのだった。

【007】

 みんなで和気あいあいとやった白梅オーナーをアイドルに仕立て上げる大喜利が終わると、再び休憩を挟んで最後はトーナメント戦を行った。抽選で選ばれた人たちがステージ上にあがって大喜利をして、観客投票で一位を決めるという形式のものだ。
 トーナメントだなんてそんな本気の勝負に挑めるほどの実力なんて無いよ、と怯えていたあたしだったが、実際はトーナメントに入ってもゆったりとした空気のままで、最後までルーキーに優しい、やりやすい会だったなと思った。
 ちなみにあたしたち三人はそれぞれうまく別のブロックにばらけたものの、その全員が一回戦で散ってしまった。まあ、残念でもないし当然だとは思った。ちなみに優勝した人はなんだかインターネットの大喜利で長く投稿している人だったらしく、近い席にいた仲の良い人たちらしき集団から手荒い祝福をされていた。
 夜からの料金は別で支払う必要があるので、ほとんどの人はここでお店を後にすることになる。あたしたちもこれで帰るつもりだ。メイドさんが出口に立って、甲斐甲斐しく「またのお越しをお待ちしておりますぅ」と頭を下げていて。
 あたしは退店する前に、二人に断ってお手洗いに向かった。……いや、正確には、お手洗いの隣の、喫煙スペースだった。
 ガラスパーテーションで区切られた一画を覗き込むと、果たしてそこには先ほどと同じように白梅オーナーが休んでいた。どうやら一人だけらしく、ちょうどいい。あたしはガラス扉を開けると、紫煙をくゆらせる彼女に近づいた。
「おや、帰るのかね?」
 室内に入って来たあたしに気付いた白梅オーナーは、そう声をかけてくる。あたしがハンドバッグを携えて来たからだろう。
「帰りますよ。一日中大喜利なんてやってられません」
「ははは。まあ、普通はそうだね」
 白梅オーナーはからからと笑うと、タバコを一服口に含む。
「……まあ、なんだね。さっきの最高のアイドルの大喜利で、君はしっかりウケてたじゃないかね」
「……どうも」
「ははは、ウケた時はしっかりを胸を張ることだね。基本的に我々大喜利プレイヤーは、ウケなくて悩んでる時間の方が長いからね」
「そんなもんですか」
「そんなもんだね。どんだけでかい大会で優勝しようが、何百人からおもしろかったと褒められようが、今さっきの大喜利でウケなかったって悩んでしまうような、そんな危ういバランスの上で生きてるようなやつらばっかりだからね」
 一服、煙を吐き出してから。
「君はさっきウケたね。なら今日のところは、胸張って帰れる権利を持ってる幸せ者だね」
「…………」
 あたしは一瞬、次に白梅オーナーになんて声をかけるべきかどうか、迷っていた。あたしはウケた幸せを胸にして、帰ったらいい。何も考えず、何にも疑念を抱くことも無く。
 しかし、あたしは元々、確認したいことがあって彼女の元へとやってきたのだ。この胸に生まれていたモヤモヤを、しかしそのままにしてバカみたいな能天気面を浮かべて帰ることなんて、できそうになかった。
「白梅オーナー。さっきの、最高のアイドルを作るって企画なんですけどね」
「なんだね」
 ベンチに座る彼女の目が、立ったまんまのあたしの目を射抜くように光った。気がした。けれどあたしは、構わずに言った。自分自身が、納得する為に。これは、必要なことだと思った。
「……あんな企画、最初は用意してなかったんでしょう?」
「…………」
 白梅オーナーはじっとあたしを見つめるばかりで、何も答えない。ただ紫煙を燻らせ続けている。構わない。あたしは続けた。
「今日の大喜利会、ルーキーの方が多いからって、非常に分かりやすく丁寧な構成になっていたと思います。プロジェクターを使って、まずはじめに大喜利の遊び方を説明してみせてから、お題を出していく……」
「…………」
「最後にやったトーナメントもそうでしたね。ルールを説明して、トーナメント表までしっかりとプロジェクター上で映し出していて」
「まあ、こっちはそれを商売にさせてもらっているわけだからね」
「では、最高のアイドルを作る企画の時だけ、プロジェクターを使わなかったのは何故ですか?」
 白梅オーナーは口をつぐんだ。品定めをするように、じっとあたしを見つめる。
「思えば、あの企画の時だけ妙に段取りが悪かったですよね。ろくな説明もしないままに企画を始めたり、プロジェクターも一切用意しておらず、大喜利のお題に使うのも自分自身。従業員のメイドさんへの回答のメモも、企画が始まってから指示をしていたりと……あの時間だけ、どれもこれも行き当たりばったりだったんです」
 他の大喜利参加者が大喜利経験が豊富だからか、そのような進行でもなんとかぼろが出ずに企画は進んでいた。だがもしあの場に慣れている人が少なくて、あたしたちのような本当の初心者ばかりが揃っていたならば。あたしたちはこの企画でどう楽しめばいいのかは、まずすぐには飲み込めなかったことだろう。
「あなたは……本来用意していなかったあの企画を、急遽あの場でねじ込んだんじゃないんですか?」
「……段取りが悪かったのは認めるけどね」
 と、白梅オーナー。
「しかしそれは大喜利に慣れきってしまった我々の怠慢に過ぎなかったのかもしれないよね? それでも尚、疑念を持つ根拠が当然あるのだろうね? それを聞かせてほしいものだね」
 疑念を持つ理由?
 そんなもの、決まっている。
「あたしがここで、アイドル育成ゲームをやっていたからじゃないですか」
 最初の大喜利の時間が終わって休憩時間に入った時。あたしは自分が全く回答を出せずにいたことにへこんでしまい、お手洗いのついでに見つけたこのスペースに逃げ込んでゲームをしていた。自分の精神を安定させる為に、最愛のアイドルであるオリビアとの逢瀬を果たしていた。そしてそのタイミングで白梅オーナーが煙草を吸う為に現れ、そして、

 ……やっぱり、才能が無くてつまんないあたしなんて、大喜利なんかやってもみんなに迷惑かけるだけだよなあ……。やらない方が、いいよなあ……

 あたしの吐いた弱音を、耳にした。
「あたしの心が折れかかっているのを見たあなたは、急遽本来やる予定だった企画を外して、最高のアイドルを作る企画を代わりにあてがった。……あたしが思考のとっかかりを掴めやすそうな、『アイドル』の要素を多分に含んだ企画を」
 果たして白梅オーナーの目論みは、まんまと的中した。
 あたしは自分の好きなジャンルからうまく回答を引きずり出して、ウケた。
 たった一度、ウケること。
 それは、諦めようとか、迷惑かもとか、そんなことを考えるよりも前に経験すべきことだと白梅オーナーはあたしに言った。そう、前に喫煙所で会った時の去り際に、彼女はあたしにそんな助言をしたのだった。
「……私は、大喜利屋の店員であり、経営者であるよりも前に。……一人の、大喜利を愛する一人の人間なんだね」
「…………」
「私は、自分の大好きな大喜利というものを、十全に楽しんでもらえないままに苦手意識を持ったまま見切られてしまうのが、どうしても耐えられなかったんだよね」
 それは、つまり……。やはり、あの企画は……。
「それで、だね? 私ばかりが聞かれているというのも、割にあわないからね。君の方は、どうだったんだね?」
「どう、とは……」
「まだ、やらない方がいいとか、思うかね?」
 言われてあたしは、ほんの少し前のあの光景を思い出していた。
 自分が回答を出した瞬間、会場内から大きな笑い声を引き出せた、あの感触を。もっともっと、あの時のあたしよりも大きな爆笑を引きずり出すようなすごい人は、他にもたくさんいた。あたしは一度きりだったけど、何度も何度も笑い声を引き出しているような人だっていた。それでも、あたしだってあの笑い声を引き出した。たった一度だけだけど、あの時の笑い声は、全部あたしの為に向けられたものなのだ。
 あたしは。……やっぱりまだ少し悩むけど。自分に才能があるだなんて、これっぽっちも思わないけど。これからもずっと、何度も。壁にぶつかっては、苦しい思いをして、強い人たちに嫉妬をして、弱い自分に対して情けない思いをして。自分自身の不甲斐なさに何度もうちひしがれることになるのだろうけど。
「それでもあたしは……あの時の感触が、忘れられません……」
 白梅オーナーはニヤリと笑う。その顔を見たあたしは、ああもうあたしは戻ることのできない獣道に足を踏み入れてしまったんだなと本能的に悟った。それでも、後悔など無い。どうせ今までだってなんとなく流されるように生きて来た。なんとなく流されるがままにお笑いサークルに入って、舞台に上げられて滑って勝手に傷ついて。だったらここでも流されてやる。やるなら最後までとことん流されてやろうじゃないか。
 帰り道で、令と文代とちゃんと話そう。あたしも、漫才やコントをやるのはまだちょっと怖いけど、でも何かしら手伝いたい。人の笑いを引っ張り出す楽しみに魅せられてしまったから。まだまだ自信なんて全然ないけど。それでもちょっとずつ、前に進ませてほしい。だいぶ離されてしまったけれど、ようやく、あの二人の背中を追いかけられるような気がした。
 大学一年生の、秋。
 他のみんなより少しだけ遅れて、大学でのあたしの青春が、ようやく始まった。

〈了〉

【あとがき】

 元々は自伝小説のつもりでした。今年の秋で大喜利歴が五年目に入りまして、まあアマチュアのエンジョイ勢みたいなやつですけど、そんなやつでもそれなりに色んな経験をさせてもらったので、自分なりに小説という形で描けたらいいなと思ったんですけど。
 読んで頂けた方ならまあ分かるかとは思うのですが、完成させたところ、九割を超える部分が創作という結果になりました。
 現実に即している部分はどこかというと、大喜利屋さんというお店が東京にあって、知り合いに誘われてそこに行った、というただ一点それだけです。それ以外の全てが創作です。登場人物たちもその立ち位置も全てが全て創作という、「そもそも自伝小説とはなんだったんだ?」というくらいの現実の無視っぷりでした。
 けれど現実の私はなんとなく知り合いに誘われていっしょに大喜利屋さんに行っただけで、実際のところ全くドラマが無かったのです。すげえウケたとかいうこともなく店員やお客さんとの劇的なやりとりがあったということも当然なくて、なんとなく大喜利してうっすらとすべってヘラヘラしてただけだったのですから。
 そもそも最初の大喜利会なんて、まさかそれから四年間大喜利を続けるとは夢にも思っていなかったころだったわけですから、思い入れも何にも無く参加していたわけです。正直もうその時の大喜利会に誰が参加していたかすら忘却の彼方です。こんなんで小説とか書けるわけがないんです。
 ……あ、でも確か……名前出しちゃっていいのかな……まあ、あとがきだからいいか。虎猫さんは、確かいたような気がします。
 大喜利暦一年未満の初心者の集まる大喜利会で、大喜利玄人枠として参加していたのが虎猫さんでした。駅から会場に向かって歩いていたその道中でたまたま遭遇したと思うのですが、なんかアイス喰ってた覚えがあります。でもそれから四年間に渡り、トップランナーとして大喜利界を牽引し続けているのだからすごいですね。
 そもそもの話になるわけですが、最初の大喜利会で全然箸にも棒にもかからない成績で、何ら劇的なことも起こらなくて、でもそんなやつでも四年間に渡って大喜利会に足しげく通うようになるわけです。だからまあ、お試し感覚というか「どんな感じなんだろう?」っていう冒険感覚でも大喜利会に来てくれるようになる方が一人でも二人でもいらっしゃれば、私たちは嬉しいよなあっていう感じですよね。大喜利会って、東京とか大阪では、さがせば大小問わずわりと頻繁にやってるものですから。こうして今大喜利界にどっぷり浸かって、新しい人たちを迎え入れる側になってみて思うことは、どんな人でも新しく人が入って来てくれることは嬉しいということ。自分がウケないとかすべっただとか、気にする人も当然多いでしょうけれど、こちらとしては新しい仲間が増えてくれるだけでとても嬉しいなと。誰でも色んなお題をこなしていれば、いつかは大ウケするような回答を出せる時がくるわけであり、それを出せるのはその時そのお題に巡り会ったその人だけの戦果なわけで、そのたった一答を出す為に私たちはいて、他のみんなもそのたった一答を待っているのです。だから、気楽にね。やれたら、いいですよ。趣味ですものね。
 まあそんなわけで書いてみたこの物語ですが、続きがあるのか? といわれると正直どうなるか自分でも分かりません。だってこれ書き始めたの、七月ですからね。完成するのに実に四ヶ月かかってしまっているわけです。書きたいな、という思いはあるけれど、実際問題日々の忙しさに追いやられて断筆する可能性の方が高いと思います。
 けれど、まあ、何かしら読んだ人からのリアクションがあったら、嬉しくて続きを書くかもしれません。私はそんなもんです。豚もおだてりゃ木に登るとは言いますが、人はおだてられたら続きを作ります。どこの世界でもそんなもんだと思います。こんな作品でも楽しんでくれる人が一人でもいてくれたら嬉しいなとか……そんな感じです。
 表紙のイラストは、ばらけつさんに頼み込んで描いてもらいました。春香さんの基本のデザインだけホワイトボードに描いて渡しただけで、あとは「おっぱい大きめで」だけの雑な発注でしたが、素晴らしいイラストをありがとうございました。2話目があれば、また描いてもらいます。
 そして最後になりますが、ここまで読んでくださったあなたに最大限の感謝を。それでは。