「九条いつき」とは何者か?或いはハイデガー的存在論への反駁 其ノ十壱

女性アスリートは根本的に微妙な舵取りが必須だし、ウマ娘にライブは必要で、戦争でゴリラに成長してしまったミカサは実はヒイズル国へ引っ越して姫になってエレンを胸キュンさせるという選択肢もあったという話でした。

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平たい話、要するに「命あってのモノダネ」ということです。「世界にひとつ」の価値についての考察は『METEOROSCAPE』初期から延々とやってきて、前回の考察『「シュレーディンガーの猫」という問題とその答え。』で「生命」ですという平凡な結論に至ったわけなのですが、そこからすると「機能」は価値そのものではなくあくまでそれを増幅させる機関であるため、あらゆる「機能」は生物としての自己意識という「世界にひとつ」の価値に依存するといえる。

女性あってのフェミニズム、人あっての企業活動。ごく当たり前なのですが、ハイデガーのいう「道具存在」に没入しているとそれを忘れてしまう。そんな事があるのではないでしょうか。

これを現象学的にいえば、「ノエマ」は「使用可能性」に開示された世界からだけではなく、それと共に「使用不可能性」という自己からも同時に創出される。それらが「ノエマ」の価値とそれを活かす機能性の源泉となる。そんな風にいえるように思います。

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これでようやく「九条いつき」とは何者か?という問題に戻ってきます。

というのも、人・キャラクターとは自己意識を含み本質的に「使用不可能性」に満ちています。ところがその「使用不可能性」があるからこそ、自己保存の価値が、完全には"充実"され得ない観念である他者に投影された時に価値・機能性の交換が可能になる。

そういうことを言いたいわけです。

「九条いつき」もそのようなキャラクターとして理解していただけると幸いです。よろしくお願いします。


「資料集から身近な創発を眺める。」につづく


話が長い!アニメだったらワンクールくらいの長さ。それでも話が飛び飛びになっていて繋がっていない部分も多々あるかと思います。そのうちまた編集したりもします。とりあえずはこんな所で。

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