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凄い94歳がいた

日曜の朝、友人と近所のレストランでモーニングセットをいただきながら、旅行の話で盛り上がっていた。気がつくとパスタがパサパサになって麺が解れなくなってきている。話に夢中になっていた。

とその時、

「お話の途中でごめんなさいねぇ、ヨーロッパはいいわよねぇ。私も海外旅行が好きなの。」

一つ椅子を挟んだ隣の席から、眼鏡をかけた可愛らしいおばあちゃんが会話に割って入って来た。「そうなんですか。」と相槌をうつと、「私、94歳なんです。」老人はよく自分の年齢を明かしてくる。「お若いですね。」定番の反応。

それから、友人の他愛もない質問を、待ってましたと言わんばかりに、彼女の話がはじまった。口調が優しいため、まったく自慢話に聞こえない。

スイスやカナダ旅行の話から、身内話になり、ついに戦争や疎開まで遡った時、きっと話相手が欲しいんだな、とりあえず話を聞いてあげようと、人生の大先輩に相槌を続けた。

しかし、先ほどから嬉々として話すこのチャーミングな94歳に違和感を感じた。


どうやら同伴者は居ないっぽい。しかも、杖を持っていない。


ここに来るまでに階段があったはずなのに、杖が見当たらない。「11時を過ぎちゃうと、このスクランブルエッグが食べられないんですよ。」と華奢な足を組みながらオレンジジュースをストローで啜っている。

聞けば、1人でこのレストランに通うのが日課で、息子夫婦と近所で暮らしているそうだ。しかも、彼女は自ら望んで2階を選び、息子たちは1階というから驚きだ。

僕たちはあと6年で100歳を迎えるこのおばあちゃんの元気の秘訣を知りたくなり、より近い椅子へ移った。

「おばあちゃん、杖も使わずに元気ですね。足腰が丈夫な秘訣はあるんですか?」

すると、「はい。私は登山が好きで、たくさん歩いてきたからです。おかげさまで、杖はまだ要らないんです。」と、今度は登山のエピソードが始まった。

彼女は毎日欠かさず10000歩は歩くそうだ。厚生労働省によると、20~60歳女性の1日平均歩数は6000歩なので、この94歳のおばあちゃんは、自分より遥かに若い人たちの1.7倍ほど多く歩き、1年間で146万歩も差をつけている。つまり1歩30cmと仮定しても年間438kmも多く歩いている計算になる。

このおばあちゃん凄すぎやしないか...。

僕たちはたぶん100歳近くまで生きる。定年退職後に相当な暇つぶしをしなければならない。登山が90歳を超えても、自由な移動を可能にすると思うと、実に興味深かった。なにかヒントがあるはずだ。


「おばあちゃんは、いつまで登山をやっていたんですか?」


「登山はまだやめてません。」


これには驚いた。友人と目を合わす。目の前に座る94歳を甘く見ていた。

「来週は熱海のハイキングコースに行きます。」

圧巻だ...。頭が下がる。彼女は8歳から始めた登山をいまでも、週1〜2回行なっていた。全国4万人の会員からなる山の会という団体に所属しており、毎回5~40名で登山を楽しむそうだ。

しかも90代の会員は彼女だけ。70代と80代の会員は存在しないらしいから、超人ぶりが伺える。

「いつも若い子たち(といっても60歳)と一緒にお喋りしながら登山をするのは本当に楽しいんです。」と嬉しそうにする表情は、無邪気だった。

共通の趣味をもつ30歳も年下の友人たちと、コンタクトをとり、待ち合わせ場所に登場する94歳を想像すると、何だか元気が湧いてこないだろうか?

「同世代の人はもうこの世に居ないし、一緒に登った70代の人たちも、痴呆が始まってしまい、一緒に登山をした時の写真を見せても覚えていないんです。思い出を分かち合う人が居なくて、すごく寂しいです。」と嘆いていた。

「この前、富士山の火山口がどうなっているのか気になったので、頂上のフチから中心部に降りて、地面を触って温度を確かめていたら、そこに立ち入らないでくださいってマイクで怒られちゃって。どこから見てるのかと思いましたよ。」

なんと...。富士山登頂もそうだが、好奇心と実行力にも驚かされる。世間がイメージする老人とは著しく異なる行動に、僕たちはあっぱれと笑った。

先日、神奈川県伊勢原市にある大山に登ったと言えば、笑われてしまった。彼女からしたら小山だったに違いない。

以前、彼女の元気っぷりが役所で噂になり、テレビ・ラジオから取材の依頼が度々きた事があったが、すべて丁重に断ったそうだ。しかも通算8社断ったと、数もいちいち覚えている。

「おばあちゃん、もぅ全てに感心しっ放しですよ。本当に凄いですね。」と伝えると、顔を覆いながら手を左右に振り「そんなことないですよ〜」と頬を赤らめた。その仕草がこれまた可愛い。

僕は会話の中でもう一つの違和感を感じていた。彼女は数字や場所を交えて、分かりやすく説明してくれる。しかも、「え〜っと...」ということが一切無く、記憶が滑らかに言語化されている。


そう。なんて意識のハッキリしている94歳なんだろう。


身体が元気なのはよく理解した。ただ、高齢になっても好きなように行動したり、1人でレストランに入って何かを頼んだり、初対面の人に最近の話をするには、脳も元気ではなくてはならない。もっとも気になるところだ。

「おばあちゃん、失礼ですけど頭がすごく冴えてますね。秘訣はあるんですか?」聞いてみた。


「神経質なところですかねぇ。私はなんでも知りたくなるんです。」


即答だった。おそらく、周りの人の脳は衰えていくのに、なぜ自分は大丈夫なんだろうと分析したことがあるんだと思う。神経質を辞書で調べると、些細なことも気になってしまう事。と書いてある。

息子夫婦が出かける時は、携帯は持ったかい、どこに行くんだい、夕飯はいるのかい、帰りは何時だい、と心配なので色々聞いてしまうんです。と照れ臭そうに言う。

当然、息子は「俺75歳だよ?心配しないでくれよ」って話になるが、どうしても知りたくなってしまうそうだ。

先日も、息子の嫁が携帯電話を無くしたと困っていたので、見つけたくなり、夜中に懐中電灯をもって車の座席の下を照らすと、やっぱりあったそうだ。彼女の性格を熟慮しているので簡単と言っていた。

94歳が、なくしモノを推理し、少ないアクションで見つけてくる。冷静に考えると凄いことだ。

このように、いつも意識を張り巡らせてしまう性分。気が休まらないと困った表情をしていたが、それが結果として脳に良かったのかもしれないとニッコリと笑っている。

ストレスが寿命を縮めるのは本で読んだことがあるが、神経質が脳に良いというのは新しい発見だった。確かに、日頃から神経質でいると思考も働き、脳トレになるのかもしれない。僕は興味や関係のない情報は入れないようにしているので、すぐボケてしまいそうだ。

「ところでおばあちゃん、耳も良いんですね、補聴器もつけてませんね。」

「そうなんです。おかげさまで耳は良いんです。息子達の会話も聴こえます。聴こえすぎて困っちゃいますよ。私のこと話してた?って1階まで降りていきますから。」とまた笑う。

ほんと敵わないな。

同時に、聴力の大切さにも気づかされた。亡くなった僕の祖母は難聴だった。いつも聞こえてないのに返事をしていた。「今日はケアハウスで何したの?」に対して「うん。」だった。

老後の高い聴力は、痴呆防止になるのかもしれない。何も聞こえなければインプットが閉ざされ、思考力も削がれてしまう。彼女のように耳が良ければ流暢なアウトプットもできる。脳科学者が、お年寄りに家族やお友達と積極的なコミュニケーションを勧めるのはそういう事なんだろう。

現に彼女は、お話が好き。およそ9割話してる。ずっと嬉しそうに話してる。こちらとしては、それを見てるのが楽しい。

僕の勝手な結論として、彼女は熱狂できる趣味と性格と聴力の複合要因が、身体と脳を維持していた。もちろん、きっと他にも要素がたくさんあって一言では語ってはいけない。ただ、本人からしたら無意識、秘訣なんてなかった。

僕たちは時間になり、そろそろ行かなければならなかった。

「貴重な時間を、私の話で使わせちゃって本当にごめんなさいね。」と申し訳なさそうにした。彼女は最後まで謙虚だった。

「とんでもないです、すごく面白かったです。ありがとう、おばあちゃんまた会いましょうね。」
後ろから彼女の小さな両肩に手をのせ、感謝を述べるとその場を去った。

繰り返しになるが、彼女は、好きなことをずっと続けて、自分の気持ちに従い、たまたま耳が良くて、話が好きだったんだ。実に楽しそうな人生。どうりでイキイキしていた。

僕たちは大きな感動をもらった。すっかりこっちが鼓舞された。
またあのレストランのあの席に行ってみようと思う。

僕も将来、若者に話しかけられるようなチャーミングな老人になりたい。

そのためにどうしようかな。




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